どさっ!




フローリングの床が背に逢着し、痛みを引き連れた硬さを齎す。
水浸しになってしまった床から伝わってくる水分が、志貴の上着を通り越して下着の中まで浸透し始めていた。
空気に従順だった頭髪も額に張り付き、眉の下の目は堅く閉じられていた。
シオンも重力に抗うことなく、進行方向へ前のめりに倒れた。
志貴を巻き添えて。

そこまではいい。

だが、シオンは倒れた瞬間、顔面に感じた痛みに疑問を覚えた。
季節は初冬、それにまだ暖房器具も使用していないはずである。
だというのに、シオンに痛みを与えたものはどうして暖かいのか。
分割思考を最大限に活用しながらも出しえなかった答えを確認するため、







シオンはその眼をあけた。


「!?」


開けた世界の中には、志貴がいた。











【シオンの苦難】

第九話「自己嫌悪と恋慕」












シオンはまず状況を整理してみた。
足の先には自ら倒してしまったバケツがあり、水がこぼれている。
お気に入りの一張羅の一部分たるニーソックスに浸透し始め、冷たさに不快を感じる。
両手は先ほどまで文句を向けた志貴の肩に当てられていて、 シオンの顔は志貴の顔の真正面にあり、なおかつ。

唇同士が重なっていた。

「は…ぶっ、う。」

そして、驚愕の瞳で志貴が見返していた。

なんなのだ、この事態は。

シオンは自問した。
先ほどまで頭に上っていたマグマのような血液が沸点を超えて気化でもしたかのように、 ぼんやりとした霧が思考を鈍らせる。
昨晩覆いかぶさって頬に接吻した時とはまるで違う。
相手の意識があるだけで、こんなにも緊張の桁が。

なんなのだ、この感じは。

シオンは再び自問した。
舌から口腔に伝わってくる自分とは別種の温かさに、思わず意識を刈り取られそうになる。
脳髄を溶かすような甘美な息がかかり、シオンは身を震わせた。

くず折れた際に飛んでしまった帽子など気にも留めず、 ただただ、二人は驚きに満ちた顔でお互いを見合った。






段々と落ち着きを取り戻した志貴が上体を起こそうとすると、 存外に強い力で床に押し付けられた。
背と床、二度目の逢着に歓喜することもなく、焦燥と共に、いつもと違うシオンの様子に首を傾げるばかり。

数瞬遅れて、志貴は口内に異物感を覚えた。

慣れ親しんだようで、新鮮な感じ。
軟体静物のような温かいものが唇を割って入ってくる。
その温かい物は、口の中を逃げる志貴の舌を捕まえんと、口腔を蹂躙し、 己の存在感たる液体を容赦なく振りまいていく。
甘い匂いと連れ立ってやってくる温かさが、不気味なまでに情欲をなで上げた。
さらさらとした紫が絶対零度の粉雪のように志貴の顔に降り注ぎ、
柔らかさと、得体の知れない恐れを抱かせた。

「…っ!」

欲望の淵へ誘い込もうとする意識を殺し、少々粗雑な勢いでシオンの双肩を掴んで、 上体を起こすと同じくしてシオンの体を引き剥がした。

「…ぁ。」

唾液の綱が崩壊し、名残惜しそうに呟いたシオンの唇から雫が垂れる。

「シオン!」

一喝。
それにより、恍惚としていたシオンの表情は刹那より早くなり変わった。
その表情から見受けられるのは、悔い。
気まずげに眼をそらすシオンに、志貴はうめいた。

「全く、どうかしたんじゃないのか?」

今まで両手で数えきれないくらい異性と情事を重ねてきたとしても、 未だ慣れない熱っぽさに荒がる動悸を押さえつける志貴。
やっと熱の冷めたシオンに糾弾の眼を向けつつ、彼は溜息をついた。

「そうですね、どうか…しているのかもしれません。」

「?」

頬が赤いまま、項垂れるシオンがポツリと呟く。
白いプリーツスカートを掴む手が、微かに震えていた。

今度こそ嫌われてしまう、という不安が、白い半紙に垂らした墨汁のように染み渡り、 絶望も、後悔も、悲しさをも通り越して最悪の未来のビジョンを見せる。

無味乾燥な生をすごしてきて、やっと色づいてきた人生が、またモノクロームに染まってしまう。

心躍る、高揚感がそがれ抜け落ちてしまう。

身を捧げても一片の悔いすらない相手が、遠ざかってしまう。




六番エラー、二番エラー、五番エラー。




「私は…、私は本当にどうかしている。」




嫌だ、と、シオンの中の何かが警鐘を叫ぶ。




七番エラー、一番エラー、三番エラー。




「私は、私は……!!」



嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、と。
壊れた蓄音機のように、思考たちも、シオンの心自身も只管に叫ぶ。
それでどうにかなるわけでもないのに、ただただ叫び散らす。




四番エラー。




冷静さに欠けていた。
普段清涼感のある志貴の眼が、今はもう奇怪な物でも見るかのような眼にしか見えない。
その眼が、とても悲しかった。
視線から、逃げたかった。

立ち上がり、踵を返そうとしたところで、シオンの視界は黒に染め上げられた。
そして、奇妙な倦怠感と共に、不思議な浮遊感を覚え、そこでシオンの記憶は途切れた。

―――貴方に狂ってしまった。

その言葉を心の奥底に埋没させ、志貴の慌てた声を聞きながら。












シオン・エルトナム・アトラシア。

没落貴族と嘲られ、同時に畏怖されたエルトナムの娘。
リアリストとして、現実を見て、確率で物事を決めるのが彼女の人生。
合理的かつ生産的かつ無駄のない人生。
そして、楽しみも悲しみもない、そんな人生。

他人に期待することもなく、自分自身に期待をかけることもなく。

他人の知識を掠め取り、自己を欺き。

論理に全てを委ねる。

絵画に例えるなら、直線だらけの贋作。
色彩はなく、キャンバスの白とアウトラインの黒のみ。
それが、彼女の生き方だった。

だがしかし、それが変わり始めたのが、今年の夏だった。

確率と計算を全て覆すジョーカーが現れたのだ。
その名を遠野志貴。
かの真祖の姫や埋葬機関でさえ梃子摺る、二十七祖が十、六百六十六の死を内包する混沌を殺し、 転生をなすことによって不滅と言われていた蛇を殺し、 現象と化し、永遠に『存在』し続けると言われていた噂を殺した者。
唯の殺人狂かと思いきや、その実は温厚であった。
その差異に肩透かしを食らった気分であったシオンだったが、 次第に彼の持つ独特の雰囲気に共感していった。

出会って1週間の仲だというのに、今まで一番親交が深いといっても過言ではない。

別れてからも、彼のことが頭からはなれず。
ふしだらでも、彼に抱かれる夢を夢見ていた。

再会。

やはり彼は計算を欺いてくれた。
シオンは事態に驚きつつも、悪い気はしなかった。
それに疑問を覚えることもなく。

だから、彼に嫌われたくない。

彼女自身、己がした愚行にはほとほと困り果てていた。
なぜこうもブレーキが利かないのか、と。
鉄面皮を被って冷然と数字を操っていたころとは違うのか、と。











「志貴…、ごめんなさい…」

「ん、気がついた?」

シオンは白昼夢のような曖昧な状態から、思考を再起動させるのに少々手間取ってしまった。

「しっ、志貴!?」

何せ、ブツリと途切れた記憶の続き。
それが、自分がベッドで横になり、その隣で志貴が心配そうな面を見せているのである。
これには流石に参ってしまう。
悪戯な定め…もとい志貴に対して、シオンの脳には疑問が浮かび上がってきていた。

「全く…いきなり倒れちまうから、心配したんだぞ。」

「す、すみません…。」

疲れた風に肩をすくませる志貴に、シオンは上半身を起こして頭を下げる。
それから暫時、沈黙。

ふと、思い出したようにシオンは志貴に眼を向けた。

「怒っては、いないのですか?」

申し訳なさそうに言葉を濁すベッドの上にいる紫髪の少女に向かい、志貴はキョトンとした後、苦笑した。
シオンはそれの意図をつかめず、気難しい顔で一つ首をかしげた。

「あ、いや、ごめんごめん。」

決して無粋というわけでもなく、小さな笑いを零す志貴にシオンは益々訳が解らないといった顔をする。

「こういうことされるのは、初めてじゃないからさ。」

「…。」

シオンが嘆息を一つ微かに垂らす。
脳裏で、朴念仁に対する怒りが再燃してきそうだ。

「それに、シオンって、変わったよな。」

「!」

ドクン、と一瞬だけ、シオンは心臓が跳ねた心地を感じた。

「髪もサラサラしてたし、良い匂いがしたし、それに…その、柔らかかったし。」

今度こそ、シオンは体中の血液が沸騰したと思える錯覚を覚えた。
いや、それを超えて頭蓋が包む脳さえ泡立ち、気体になってしまったかのよう。
ぼんやりとした感覚の残滓をひしひしと噛み締めつつ、必死に俯く。
そうでもしないと、耳まで真っ赤に染まってしまったことが露見してしまうから。

志貴は男性にしては柔らかそうな唇に手をやり、一撫ですると、少し顔を赤くした。

「片付けはちょっとだけしておいたから。」

四方八方に落ち着きなく眼をやったあと、志貴は上ずった声で告げた。

「あ、ごめん、そろそろ時間だから俺行くけど…。」

それから立ち上がり、背を向けた後に首だけ回して続ける。

「まだシオンの部屋の片付け、全部終わってないから、とりあえず俺が戻るまでこの部屋使って。」

「ここは?」

問うシオンに、志貴は腕時計を見て少し慌てると、 駆け足になって部屋を出る瞬前に大きな声で言った。

「俺の部屋!」






1人残されたシオンは、志貴の部屋、志貴が毎夜つかっているベッドに勢い良く背を倒し、 同じく布団を頭の上まで被った。
鼻腔に流れ込んでくるのは、ベッドの主の匂い唯一つ。
けれども、シーツはない。
恐らく翡翠が起きたとき洗濯籠へ放り込まれてしまったのだろう。
しかし、それでもシオンは満足だった。
傍目から見れば、自分の行いは奇異に見えるかも知れないが、 唯1人だけのこの部屋ではせめて、シオンはシオン・エルトナム・ソカリスで居たかった。

彼女はぎゅっと布団を抱きしめ、束の間のぬくもりに酔いしれた。









「翡翠、今日は何時帰れるかわからないから、帰る前に電話するよ。」


ジャケットを羽織りつつ、ポケットに七ツ夜と財布をねじ込み、駆け足でロビーを通る。
豪奢な絨毯の引かれた階段などを3段とびくらいで下りてきたのだが、それも秋葉不在が所以。

わざわざ門まで、とは行かぬものの、玄関で背を伸ばして待っていてくれる翡翠に、 志貴は眼を合わせた。

「はい、いってらっしゃいませ。志貴様。」

「うん、ありがと、翡翠。」

「いえ…、それほどのことでも…。」

毅然とする翡翠の表情が少し緩み、志貴が横を駆け抜けていったとき、 翡翠は前にあわせていた手を解いて右手を小さく振った。

「いってらっしゃいませ、志貴様。」

どことなく、彼女の面持ちは何事をしている時をとっても、
またそれ全てあわせても勝てないくらい、至福に満ちていた。














後書き



志貴くん絶倫ね。

さて、次回はシエル先輩とデート編。
まぁ、部分けするなら、今回で一段落ってところです。
月姫、ひいては奈須きのこ氏のキャラクターは一人一人個性があって面白いですね。
個人的には(どのキャラも好きなんですが)シエルとかシオンとか琥珀さんがいいですね。
敵キャラも含めて言えばネロとか好きです、


ネロとか!

もどる

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送