翡翠の視線が痛い。
声も発していないのに現れる重圧はまさに殺気。
冷たく変わった眼が無言で非難を浴びせかけてくる。
薄目を開いてそれを見ていたシオンは、あまりの寒気に身震いした。

「ふ、ああああー。」

棒読みの欠伸をして、さりげなく志貴から距離をとるシオン。
そのあんまり芝居がかった動作に己を嘲りながらも、
彼女は翡翠の顔色をうかがってみた。

「…おはようございます、シオン様。」

「おはようございます、翡翠。」

空気が冷たい、だからといって暖めようにもシオンにはボキャブラリーが足りない。
青ざめた顔、しらけた眼、引き攣る無表情。
それらを緩和させることができる語彙が。
『ボケろ』という四番の意見を即却下して、他の思考に答えを求め縋る。

「この手だけは使いたくなかったのですが。」

「?」

結局、最後の手段を使うほかはないと覚悟を決める。
ベッドサイドに置いておいたエーテライトを後ろ手にとった。

「すいません、志貴。」

ぶすっ!!

「むがぁ!!!」








【シオンの苦難】

第八話「嫉妬でいかが?」









米神に突き刺さったエーテライト。
咄嗟の行動に不備が生じためか、神経に接続する際に多大な痛覚への刺激、 すなわち痛みを抑えることができなかった。
が、これはシオンの狙い。
寝ぼけ眼を擦りながら眼鏡を探している志貴に対し、命令を下した。

「あれ?」

ガコン!
と擬音であらわして事足りる音。
壊れた人形のように起き上がり、漸くかけた眼鏡をずらしながら志貴がベッドから降りる。

「れ?あれれれ!?」

憮然と立ち尽くす翡翠にグースステップで歩み寄り、志貴は疑問の声を上げた。

「な、なんだよっこれ!」

「志貴様!?」

そして、後ずさり始める翡翠の指を取り。





パクッ。






「あっ…」






要するに、志貴が翡翠の指を咥えただけなのであるが。

ちゅーちゅー、ちゅぱちゅぱ。

「あっ?あっ…あっはぁ。」

翡翠、落城。















「事なきを得たシオンは割烹着の悪魔の襲撃に備えるのであった。」

「なに言ってるんだよ。」

「いえ、七番が勝手に。」

「は?」

腰を抜かして茹で上がった翡翠を後ろ眼に、志貴は問うた。
寝ぼけてやってしまったのだと言いくるめられてしまった彼としては、 主犯が自分なので罪悪感ばっちりといったところ。

「志貴は絶倫ですね。」

「いや、言ってることが滅茶苦茶だし。」

「六番の言うことですから無視してくださって問題ありません。」

とりあえず、七番と四番をカットして、これからの事態に備えることにした。
志貴のベッドに翡翠を寝かせて、「とりあえずの」場しのぎ。








今にして思えば、昨晩は惜しいことをしたとシオンは唸った。
時間を無為に使用したのは、人生に対する冒涜だ。
そこから得る物があるとすれば、無為ではなくなるのだろうが。
ロジックで片付けられないことに、理屈をつけようとして、結局時間を使いすぎた。
エルトナムの特徴として自己が薄く、他を吸収、もしくは依存しやすいという性質が仇になった。
頭の固い優等生でいる必要は無いというのに、どうしても臆病になってしまう己が憎たらしかった。

自問すれば淀みなく答えられるくらい、シオンは志貴にベタ惚れしている。
それは、理想を志貴に重ねることなく、ありのままに惚れ込んだのだから、尚性質が悪い。

実際、今年の夏を境に劇的に変わったとアトラスでも言われたことがあった。
彼女自身も女としての雰囲気に変わり始めたこともあり、少しずつ変わり始めていた。

故に、志貴の突拍子もない行動理念には困る。
昨日も、屋敷へ行く前に飛行機で乱れた身だしなみを整えたかったし、 何よりもう一度髪を結いなおしたかった。
それなのに、思い出しがてら立ち寄ったシュラインには志貴がいた。
あの時ほど自分の気まぐれを恨んだことはなかった。
イレギュラーな事態に弱い自身の性質をしっていながら、改善ができない。
そんな今まで気づかなかった、否、気づく由もなかった弱点にシオンは頭を抱えていた。








「とりあえず、居間へ向かいましょう。」

着替えが終わったころ、シオンが告げる。
志貴は曖昧な返事をしつつ、己のベッドで悶絶している翡翠に気の毒そうな目を向けた。







「おはようシオン、良く眠れたかしら?」

「おはようございます、秋葉。お陰様で。」

「おはよう、秋葉。」

今日も今日とて優雅にティーカップを傾ける秋葉。
雰囲気は別段違う物はないが、今日の服装はセーラー服ではない。
休日なのだから当然といえば至極当然。
シオンは紅茶の王道ダージリンの香りを吸い込んで、ソファに腰を落ち着けた。

「おはようございます、志貴さん、シオン様。」

丁度志貴がソファに腰を落とそうとした瞬前、明るい声が届いた。

「おはよう琥珀。」

「おはようございます、琥珀。」

「おはよう。」

秋葉、シオン、志貴の順に返され、琥珀はニコニコと笑う。

「朝食はどの様にいたしましょう?」

「んー、じゃいつもの和食で。」

逡巡の意味を成さないことに対して苦笑気味に志貴は答えた。

「私は…いえ、私も和食でお願いします。」

「かしこまりました。」

頬に朱を挿して尾に至るまでに声のボリュームを落としていくシオンに、琥珀は微笑した。
言動の合間にも志貴のほうを盗み見たりしているのも、なんと初心な事か。






「そういえば、翡翠はどうしたの?」

カップが寂しくなり、ゆっくりと冷めていく中、秋葉は思い出したように顔を上げた。
一瞬、その挙動に空恐ろしい物を感じたが、シオンは得意のポーカーフェイスをつくる。
変わって志貴はというと、真っ青な顔で眼を泳がせていた。

「翡翠は大分疲れていたようで、起こしに来た時に倒れてしまって。」

「あの娘、無茶するから…何処かの誰かのせいで。」

ふと、表情に陰りを見せた秋葉に、志貴は乾いた笑いを返した。

しっかりものの翡翠ではあるが、半面頑固なところがあり、 自分のことを考えないために志貴も秋葉も一抹の不安が拭えない。
使用人の鑑としては言葉も無い。
しかし、まだ20にも満たない翡翠にはいささか荷が重過ぎる。
仕事については完璧主義で、最近は人に接することにもなれてきたというのに、 ニブチンの誰かのせいで気苦労をさせるというのも、嬉しさ半分哀しさ半分である。

「志貴のベッドに運びました。暫くすれば起きて来るかと思います。」

「風邪をひいてしまったかもしれないわ、最近の冷え込みは凄いから。」

憂いを浮かべて気遣わしげに嘆息を繋げる秋葉。
そのムードを吹き飛ばすかのように、台所から声が飛んできた。

「御飯ができましたよ〜。」

キャスターで盆を運び、長いテーブルに料理を置く。
それからトコトコと秋葉の元に歩み寄り、そっと耳打ちした。
そうすると、秋葉は軽く思い起こしたように驚き、ティーカップをソーサーに置いた。

「あ、ごめんなさいシオン、兄さん、今日は会議があるの。」

すくっと立ち上がり、秋葉は告げた。

「そうなのか、がんばれよ。」

「お疲れ様です。」

普段より一つ多い声援に、秋葉の顔の強張りが薄れ、次第に口端は柔らかくなっていく。

「ええ、では。行きましょう琥珀。」

「はい。食器は後で片付けますので、志貴さんは流し場においていていただけますか?」

「うん。わかった。」

志貴の幾分か童子じみた頷きに、琥珀は柔和に笑い、秋葉の背を押しながらリズミカルに跳ねていった。









今日の天気は珍しい快晴。
どこまでも続きそうな気持ちのいい空。
開け放したテラスの窓から駆け抜ける風は少しばかり肌寒いものの、
日向に出れば十分暖かいくらいである。
師走という季節感に反するほど、ゆったりとした時間を身に感じながら、
シオンは久しぶりに食した美味しい料理を肴にして、志貴と話の花を咲かせた。

時にして九時。

志貴は琥珀にいわれたとおり食器をさげ、再びソファに落ち着いた。

小さなテーブルの上には新聞が一つ。
恐らく秋葉が眼を通した物だ。
新聞など滅多に見ない志貴はそれをたたみ、一つ息をついて対面のシオンに眼をやった。

「さてと、これからどうする?」

「そうですね。私は部屋の整理を。」

淀みない返答に志貴は数瞬考えた後、一つ頷いた。

「手伝うよ。」

「ありがとうございます。」

過去と比べて、シオンも大分笑うようになったと、志貴はその時感じた。








昨晩シオンにあてがわれた部屋は、長い間簡単な掃除だけで済まされていた部屋であった。
ドアを開けた瞬間、布の匂いが漂い、それと埃が舞うほどだ。
机は塵が被り、窓枠に指を滑らせると綿塵が纏わりつく。
人のいる洋館にしては似つかわしくない様相だが、この屋敷自体使用人が1人で掃除できる広さでもない。
琥珀の片付け能力が皆無であるからして、翡翠くらいしかこのようなことをしないためである。
部屋の前に置かれたバケツや雑巾、叩きに、三角巾。
やはり洋館にはそぐわないそれらに、シオンと志貴は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。

始末の悪い、さび付いた窓の鍵を引き上げ、引っかかる窓を押し開けると、そこから風が吹き込んだ。

「どこから始めよう?」

三角巾を口に回しながら問うと、同じく三角巾をつけたシオンが答えた。

「埃が舞うので、絨毯や布団を庭で埃を落とした後に干して、その後に掃除をしましょう。」





離れの前にある広い場所で、シオンと志貴は布団と絨毯を広げた。
その後、また割り当てられた部屋に戻り、バケツに水を汲み、 叩きで天井の埃を落としに掛かった。

「んっ、もうちょっと右ですね…っあ。」

「え、今ので丁度いいと思ったけど。」

肩車をして、ぱたぱたと埃を落としていく。

「ん、志貴!もっとしっかり掴んでください、落ちてしまいます!」

「え、しっかりって…。」

ミニスカートからニーソックスまでの間に覗く白い太股。
柔らかい質感を持ったそれが、時折強く志貴の頭を挟んだりしている。
豊満なアルクェイドとも、臀部の肉付きのいいシエルとも、無駄な贅肉のない秋葉とも、
それぞれ違うものだが、シオンの体は中間に値した。
肉付きが良いわけでもなく、かといって悪いわけでもない。
その点で琥珀や翡翠と似ているが、スラリとした足は均整の取れたマネキンのよう。

「もう少し強くです!」

「う、うーん。」

なんだか女性特有の香りが志貴の鼻腔に訪れた。
久しく嗅いでいない匂いに、一瞬立ちくらみが身を襲う。
その後、頭を傾かせてくる衝動と一物をなんとか抑え深呼吸。
このやろう。だから節操なしなんていわれるんだよ。なんて毒づきつつ、無心で足を運んだ。






「大体箒も終わりましたし、あとは雑巾がけですか。」

「そうだね、じゃぁさっさと終わらせよう。12時に先輩と待ち合わせだし。」

水の入ったバケツを取り、雑巾を二つ落としてシオンのほうを振り向くと、 シオンが凄惨な形相で二つの眼を志貴に向けていた。
思わず気圧され、一歩後ずさる志貴。
一般的に、その表情は怒りだと志貴の頭には認識されていた。
ズェピアと対峙した時のような表情、それも歯を食いしばり、睨みつけている。
一瞬吸血鬼に変わってしまったかと疑ってしまった志貴だったが、
自身の衝動が鎌首を挙げないために、それは初端で却下した。
怪訝そうな顔でシオンを伺っていた時、志貴の耳に蚊の鳴くような声が聞こえてきた。

「…どうして、貴方は…!」

途端、シオンの目頭に潤いが満ち始めた。
口をへの字に曲げ、息を呑むシオン。

「えっと、シオン…俺、なんか気に障ることした?」

一瞬、シオンの頭に激怒が流れた。

「なんでもありません、さっさと終わらせるのでしょう?早くしましょう。」

ふん、と一つ鼻で笑い、相手を侮蔑する顔をした。

少なくても、女性と男性がいて、そのどちらかがもう一方を慕っていて、 恋愛感情のような物を抱いていたとする。
そんな間柄にして、思いを抱かれる人間が他の異性の事を口にするのはあまり好ましいことではない。
それは、慕う者が対象を想う度合いに従う。
故に、シオンは激昂していた。
志貴の言い方からすると、全くシオンは眼中にないと言われているようで、 少し哀しく、憤慨するのも頷けた。

「シオン、本当に俺悪いことした?していたら、謝るよ、ごめん。」

これだ。

遠野志貴が好かれる事があっても、嫌われることが少ない所以。
愚直なまでに他人に良い顔をし、自分自身を蔑ろにしてしまう。
そんな態度に、シオンは益々眉を顰めた。
こういうところを全部ひっくるめて、遠野志貴を好いてしまったのだ。
だから、他の人間にはそういうところを見せて欲しくない。
優柔不断すぎる。
恋仲でもない、まして想いを告げることすらできないシオンが言えることではないが、 彼の眼を他に向けさせることが憎憎しく、悔しい。

「なぁ、シオン「黙りなさい!」…。」

それに、シオンはそんな想いを押し付けてしまう自分に嫌悪感を覚えていた。

「…なんですか、人が掃除をしている時に不謹慎な。
 それに手伝ってもらっているとは言え、貴方の行動は著しく常識がない!
 私の考え違いとしても、貴方はもう少し考えることができるはず。
 いえ、そうでなければいけないのです!
 重ねて言わせて貰いますが、常々貴方は常識に欠ける!
 行動理念の欠片すら認識できない!
 もっと聡明な判断すらできないのですか、貴方は!!」

早口で噛み付いてくるシオンに、志貴は顔色を暗くした。
秋葉に小言で突っつかれるのは慣れているとしても、 これほど間接的に罵られることは今までになかった。
だから、不条理な怒りが段々と起き上がってきていた。
シオンも、口をこじ開けるようにして出てくる文句をとめることができなかった。

「なんだよ…。そこまで言うことないじゃないか。」

「いいえ!前々から言おうとしていましたが、貴方はおかしい!」

ツカツカと歩み寄り、眼前30センチに顔を突きつけ、怒鳴り散らす。
普段なら照れてしまうだろうが、今は怒りで顔が真っ赤になっていた。

「大体!貴方は…!」

ガツン、と音がした。
足を踏み出したところに丁度あったのは、志貴が汲んできたバケツ。
無論怒り心頭、との言葉どおり、足元に眼を向けなかったために気づけなかったイレギュラー。
だが、気づいたとして、もう一歩踏み出した瞬間の足は宙を蹴った。

「「!?」」

要するに、転んでいるわけである。
意気込んで肩を怒らせて歩いていたために、バケツの水は派手にぶちまけられ、 それに足を引っ掛けたシオンは志貴諸共床にくず折れた。













後書き

シオンさん嫉妬。
無闇に手を使ってくるほうじゃないと感じたので、
幾分か日ごろの文句をこめてぶつけるつもりで。
まぁ、喧嘩とかでよくこんな感じになりますよね。

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