乾坤一擲…という言葉がある。
その言葉の意味は、いちかばちか、自分の運命をかけて物事に取り組むこと。


場の空気が一瞬にして絶対零度に変わった。
ゆっくりと、志貴が振り返ると、其処には聖母の笑みを湛えた美人が立っていた。
蒼の混ざった黒髪に、蒼眼。
ショートカットにまとめたその髪に、こめかみあたりから垂らした髪が女性らしさを出している。
目じりの下がった眼鏡も、その奥にある眼を優しげに変えていた。
カジュアルなベージュのジャケットと膝の上まであるチェックのスカート。
中に来ている空色のタートルネック。
似合いの衣装を身につけたその女性を、志貴は知っていた。

「シ……シエル先輩…。」

怯え竦んだ声をようやく絞り出し、座りなおす志貴。
ふと、シオンを見ると、毅然とした態度でシエルと向かい合っている。

ああ、戦場になるのか…ここは…。

志貴は何か良い言い訳はないかと頭を抱えた。
まさに乾坤一擲。











【シオンの苦難】

第三話「彼女の事情」












「はむ…んぐんぐ…。どうして…んぐんぐ…貴方が此処に居るのですか?」

シオンがラズベリーパイを頬張りながらシエルに言った。
シエルはその言葉に顔を顰めたが、嘆息を一つ吐き出すと、
隣の椅子を引っ張って志貴の直隣においた。

「遠野君、私も同席していいですか?」

「なっ!」

驚いた声を上げるシオン。
そんなシオンに、シエルはニヤリと笑うと、志貴に顔を向けて擦り寄った。

「え、あ、いいけど?」

「志貴!」

シオンが声を荒げるが、それに臆する様子もなく、シエルは椅子に座った。

頭を抱えて深い溜息をつくシオンは、予想できたはずの来客を想定していなかったことを後悔した。
分割思考が全て志貴のことを考えてしまい、それ以外のことを計算できなかった。
大失態、やはり思考六番と七番が暴走気味のせいか。
普段なら主観と俯瞰の多視点でものを捉えることが出来るはずなのに、
今日に限って全部が言うことを聞かない。
予定なら、このまま志貴と話をして、屋敷に足を向けるつもりだったのだが。

「なぜ貴方が此処に居るのですか、どう考えても不自然です。」

焦燥のせいで、いつもの冷静さを欠き、ムスッとした言葉になる。

「あ、すいませーん、私にもラズベリーパイとダージリンティーくださーい。」

シエルがウェイターにいう。
無視されたことに一瞬呆然としたシオンだったが、次第にピクピクと震え出した。

「代行者!」

「シオンさん、職務中以外はシエルと呼んで下さい。」

イヤに冷静を装うシエルの姿勢に、シオンは憤慨しそうになる。
一瞬糾弾の言葉が喉を突付いたが、何とかそれをしまいこみ、不機嫌面を抑えた。

「それに、それはこちらの質問でもあるんですよ?」

ちらり、とシエルがシオンを見やる。

夏にシオンが三咲町へ訪れた時は、シオンは幾つもの規定を破り、指名手配されていた。
そのときシエルにも捕縛の命が下り、一度交戦したことがある。
その際に志貴がいたが、結局はシエルが見逃すという形で事は終わった。
実際はシエルが志貴を傷つけないようにそうしたことが明白。
その後二十七祖が十三、ワラキアの夜を滅することに成功。
シオンはそのままアトラスに戻った…のだが、シエルとしては面白くなかったのだろう。

「私はちゃんとした理由がありますので、貴方に追及されてもなんら痛くありません。」

シオンが、ふんと鼻を鳴らしてシエルの視線を一蹴した。

「ですが、私の職務は死徒を滅することですので、今の貴方は標的に過ぎません。」

凛とした表情のままで答えるシエル。

「せ、先輩、シオンは…」

志貴の言葉に、シエルは底冷えするような笑顔を浮かべる。

「解っています、血を吸わないんでしょう?」

「ええ、既に私の血を吸ったタタリは抹消しましたから、衝動も希薄です。」

負い目がない、と感じているために、シオンの言葉は明瞭だ。
しかし、そんな様子に、シエルの眼が『代行者』の眼に変わった。

「でも、今は…でしょう?」

「何が言いたいのですか?」

シオンの言葉に怒気が孕まれて行く。
それをみたシエルは優位者特有の意地の悪い笑みを浮かべた。

「何れは私の敵になる…、いや、敵である…という「先輩!」…?」

唐突に、志貴がトーンを深めていくシエルの声を遮った。

「そんな悲しいこと言わないでくれよ。今、こうやって皆で同じテーブルについているじゃないか。」

「志貴…」

「遠野君…」

突然の介入だったが、シエルは動じずに志貴を見据えていた。
一方シオンは驚いたように目を丸くしている。

「それに、シオンはその死徒にならないで済む方法を研究してくれている…。」

愁いを帯びた声が、二人の心を貫いた。
志貴が、過去クラスメイトに手をかけたことを思い出して。



吸血鬼にならないための研究。
シオンはそれをしていて、今一瞬だけよかったと思った。
擁護される優越感に浸れたから。
だが、逆に罪悪感に駆られた。
過去、エーテライトで志貴の思考を読み取った時、シオンは立ちすくんだ。
志貴の心には、幾重にも束縛と惨劇が満ちており、壊れてしまわないかと思うほどだった。
その束縛の中の一つ、弓塚さつき。
吸血され、哀れな死徒となってしまった女生徒。
視覚の情報を読み取った限り、表情や仕草からして志貴を慕っていたことが解った。
だからこそ、志貴は苦しんでいる、今でも。
今、その古傷を持ち出すには、あまりに痛すぎる惨劇。



「もう、あんなことにならないで…済むかもしれないんだ。」



めったに見せない、今の志貴の顔。
苦渋、悲痛、悲哀、そのどれもが似合う顔。
そして、そのどれもが志貴には似合わない顔。
何度か志貴と交わったことがあるシエルでさえ、見たくないと思う顔。

「だから、先輩…」

縋る様な眼の志貴に、シエルは頬を赤く染め、溜息をついた。

「もう、しょうがないですね遠野君は…」

やっと『代行者』の眼から優しい目に変わった。

「でも、一つ条件があります。」

ニコニコ顔で語りかけるシエル。
それ訝しげに見ていたシオンは問うた。

「それは私に?それとも志貴に?」

「もちろん、遠野君です。」

「俺!?」

指名に驚愕して、志貴は上ずった声をあげる。

「ええ、明日私と一日デートしましょう。」

さらっと言ってのけたシエルに、志貴とシオンは一瞬呆気に取られ、
間抜けに口を開いたまま数秒。

「ま、マジですか?」

「ええ、マジです。おおマジです。」

「っ〜!」

揺るがない言葉の調子を崩さないシエルに、今まで唖然としていたシオンはついに吼えた。

「納得がいきません!不条理です!理解不能です!なぜ私の事で志貴とデートしなければならないのですか!及第点以下です!まさか貴方は私云々ではなく、元から志貴とデ…デートするために来たというのですね!そうですか?そうでしょう?!そうに違いありません!」

良く呂律が回るなー、なんて思いつつ、シエルはウェイターがテーブルに置いたラズベリーパイと紅茶に手を伸ばす。
そして、紅茶の香りに溜息をそそられながらもラズベリーパイを一口かじった。

「うん、おいし「それから貴方は何をっ、!?そう、そうなのですね、志貴の節操なし!」…」

「せ、節操なしって…」

何を思いついたのか、シオンが志貴を糾弾し始める。
まぁ、確かに節操なしといえば節操なしなのだろう。
一部では絶倫超人とまでささやかれているくらいなのだから。
「紅茶とラズベリーパイって結構相性良いですね〜。」

その後30分弱、シエルはシオンのガトリングガントークをBGMに昼のティータイムを過ごした。








「御代、ここに置いて行きますね。」

シエルが酸欠で倒れているシオンを横目に志貴に笑顔で言う。

「あ、うん。」

同じく、志貴も酸欠で倒れているシオンを尻目に答えた。
踵を返して店を出ようとするシエルの背中に、志貴は眼をやるが、
数瞬その背中が止まったかと思うと、今度はくるりと回って穏やかな笑みを浮かべたシエルが駆け寄ってきた。
シエルは席についている志貴に近寄り、腰をかがめて顔面30センチ手前に顔をつき合わせる。

「では明日の正午、公園で待ってます。ご飯は食べてきてくださいね。」

耳打ちが終わると、シエルは一瞬だけ志貴の頬に自身の唇を重ねた。
志貴が驚いて顔を真っ赤にしている間に、シエルはアーネンエルベを後にした。

忙しく駆けていったシエルの姿が見えなくなると、志貴は自分の頬に手を当てた。
それを眼の前に持ってくると、少しシエルの匂いとラズベリーの香りがした。







大体2時過ぎ、というところだろうか。
太陽を隠しきれるほどの雲もなく、澄んだ空の色。
気温は少し低いけれども太陽が明るいので苦にはならない。
日当たりのいいテラスで、秋葉と琥珀は紅茶を嗜んでいた。
翡翠は秋葉の誘いも鄭重に断って屋敷の中の掃除をしていた。
そんなところが几帳面すぎる翡翠に、秋葉はいつも感心させられる。
しかし、志貴の部屋の掃除に時間をかけすぎではないのか。
物の数が少なく、手間も少ないのだが、手を抜かないのが彼女らしい。
…しかし、たまに志貴の部屋で転寝をしていることを知っているのは琥珀だけである。

「兄さんがいないと静かね…」

ふと、呟いてみる。

「そうですねぇ、もしかしてシオン様とばったり会ってしまったのでは?」

「ありえるわね、シオンは話が長いから。」

クスクスと笑う秋葉。
琥珀もそれにつられて笑う。
最中、翡翠がテラスにでて、秋葉の手前までやってきた。

「掃除が終わりました。」

「お疲れ様、大変だったでしょう?」

「いえ、お仕事ですから。」

偉く事務的な言葉なのに、答える翡翠の顔は柔らかい。
大分感情を表に出してきている翡翠に微笑ましい物を感じながら、
琥珀はその仕草にニヤリと笑った。

「志貴さんのベッドの寝心地は良かったですか?」

「はい、とっても。・・・・・・・・!!」

琥珀に、突然何を言い出すのか、と言いたげな秋葉の顔だったが、
言葉の違和感に気づくと、徐々に眉間に皺がよっていった。
しまった、と言わんばかりの翡翠の顔。

「翡翠…それはどういうことかしら?

秋葉の雰囲気と眼が、捕食者のそれになるまで、時間はなかった。














後書き

シオンのSSなのに何故かシエルが活躍してる(汗

え?最後?
最後は注射かサタデーナイトフィーバーで決着でしょう、多分(ぉぃ

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