少年にとって、その出来事はあまりに慣れたものであったため不思議と恐れは無かった。
しかしながら、彼、遠野志貴にとって気がかりなのは、浴場で会い見えた女性だった。

吐息にはタールのにおいがした。

頭に浮かぶ女性―――それももうそろそろ十年になろうかというほど昔に出会った女性―――は、煙草を吸わなかったが。
ショートカットが似合う大人の女性と、ロングヘアの無邪気な大人の女性。
どうしてか、志貴の頭の中では二人が霞む。

それに、浴場の女性は魔眼殺しという言葉を知っていた。

アルクェイドの言葉を引用するなら、今自身が掛けている眼鏡はとんでもない完成度をもっているらしい。
その上、ちょっとやそっと…まぁ、彼女の規格からみてだから、一般人では滅多なことがあっても壊れないという。
大分昔に手渡された、当時の体に不釣合いなくらいの大きさの黒縁眼鏡。

志貴にとって、その眼鏡は本当に魔法だった。

小さかった自分が目を覚ますと、いつも世界はひび割れているようで、気分が悪くなった。
なぞるだけで、果物は崩れ、ベッドは瓦解する。
そのとき、幼いながらも少年だった志貴は理解した。
目に見えるすべてのものに走る線はツギハギで、そのほころびを断てば壊れてしまうということ。
壊れやすいほど線は多くて、理解してしまった分だけ恐ろしくもなった。
世界はとてつもなく壊れやすくて、蜘蛛の巣みたいに線がある地面を歩いている。

そんな世界から手を引っ張ってくれたのが、通りすがりの魔法使いだった。

たぶん、最初の憧憬を抱いた相手。
彼が先生と呼ぶその女性に、ショートヘアの女性は良く似ているような気がした。

彼女も魔法使いなのだろうか。
でも、それはきっと間違いで、彼女と先生は違う人なのだ。


ふと、眼鏡の蔓を人差し指で押し上げる。











【シオンの苦難】

第二十一話「あなたはだれですか?」













「お料理もおいしかったですし、露天風呂もよかったですねー」

「そうかな? 俺は琥珀さんのご飯の味付けのほうが好みだけど」

「またまたぁ、志貴さんったら口説き文句ですよそれ〜」

時計は夜の十時を少し回ったかというところ。
二部屋に分けたはずなのに、全員一部屋に寄り集まって和気藹々とした雰囲気を楽しんでいた。
先ほどからトランプゲームに興じているアルクェイド、シエル、秋葉。
というよりか、列車の中でのポーカーの雪辱戦とやららしい。
七並べ、ババ抜き、ブラックジャック、大富豪、スピード、ダウトとまぁ、かれこれ一時間はこんな具合である。

比較的勝率の高かった志貴、琥珀、翡翠、シオンは蚊帳の外で、それぞれ自由な時間を謳歌している。
部屋の中央に敷かれた布団の上で丸くなってトランプゲームをしている三人を尻目に、小さなテーブルを囲んで志貴たちは会話に花を咲かせていた。

「私も志貴の意見に賛成です。全体的にここの料理は味が濃い」

髪を下ろしたシオンがポツリと告げた。
体に纏うのは浴衣で、帯の結びもしっかりとしてある。
ほかの皆も一様に浴衣を着ていて、アルクェイドにいたってはトランプゲームではしゃぎすぎて着崩れていたりする。

「…ふぁ…あ」

琥珀の傍らで翡翠が小さな欠伸。

「あらあら…」

小さな笑みを浮かべながら琥珀は、船を漕ぎ出す翡翠を見つめた。

「今日はいっぱい遊んだからなぁ」

柔らかい笑顔を見せる志貴。

「そうですねぇ、では私たちはそろそろオネムな時間ですので」

部屋割りは、志貴、シオン、アルクェイドの三人と、そのほかの四人で二つの部屋。
今いる部屋は三人部屋で、布団も三つ敷かれている…既に皺だらけだが。

「む、もうこんな時間ですか。引き上げますか秋葉さん」

「んじゃお開きね。妹、片付けよろしくー」

「なんで私が!?」

「だって最下位だし」

「くっ」

トランプ組も早々と立ち上がり、恨めしそうな顔をする秋葉を他所に、シエルと翡翠と琥珀は隣の部屋に移る。
と、にわかに静けさを取り戻しつつある部屋のなかで、秋葉がトランプをケースに入れて彼女たちの後を追った。





部屋には敷かれた布団の人数が残り、今まで狭く感じた部屋も心なしか広く感じた。
そんな寂しさを誤魔化そうとしたのかは定かではないが、シオンが志貴に向く。
それから、まるで決闘でも申し込みそうな気概で言った。

「あの、志貴。髪を梳かしてもらえませんか?」

それはもう、夕飯の酢の物に入っていた茹蛸のような顔色で。







三つ編みをといた髪は、子供ほどの身長もあるかというくらい長かった。
既に寝息を立て始めたアルクェイドに布団をかけると、志貴は化粧台の前に座っているシオンの後ろに付いた。
畳に垂れた紫色の髪を踏んでしまわないように注意を払いつつも、右手にプラスチックの櫛を持つ。

少し編んだ跡の残るシオンの髪を指で掬いながら、滑らかな流れに櫛を入れた。
あっ、と驚く。
小さく声を上げたのはどちらとも付かず、お互いに静かな様子で志貴は髪を、シオンは鏡に映る志貴を眺めていた。

くすぐったい感触を覚えながら、シオンが目を細める。
慣れない浴衣の着心地にまだ戸惑いながら、体感できる風情に思わず笑みがこぼれた。

バスローブとはまた違う肌触り、その下にはショーツしか穿いていない。
ドクンと心臓が跳ねた気がした。
お互いに、体を一枚の布と下着を纏っただけの姿。
自分でも気づかないうちに、頭の中では今の現状を見始めていた。
友人としての意識から、異性としての意識に変わり行く想い。
いや、気づいていたはずなのだ。
あの暑い夏。彼と出会ってから、もう自覚していたはずだ。

それまで、異性というものを感じたことは無かった。
人間は一個体とし雄雌の性別を持ち、些細な違いを生じさせるだけ。
そう考えてきただけあって、その分、あの暑い夏は衝撃的だった。

人と親密な関わりを持つことも、誰かを好きになることもはじめてのことだった。
同じくして、自分自身が女の性を持つということを自覚することになった。

別れは、後ろ髪を引く。
けれど、それは支えにすることができる。

アトラスに帰還したときの厳罰は、正直な話、無理難題をあてつけで吹っかけられたようなものだ。
秀才エルトナムを蹴落とそうとする見え透いた意図がシオンに憤りを覚えさせ、古い体制は棘のようにまとわり付いた。
そのたびに、何度挫けてしまいそうになったか。
そしてそのたびに、何度彼の顔を思い出したことか。

「不思議なものですね…」

「ん?」

「いえ、ただのひとりごとです」

半年で罰を逃れたのは、偏に彼のおかげといって差し支えない。

自分は変わってしまったのか、それとも望んで変わったのか。
どちらにしても、シオンは今の状況が嫌いではなかった。
少なくとも、こうして背中を向けて髪を梳いてもらえる人がいるということは、とてもうれしいことなのだから。

「そう」

朴念仁、とシオンは、苦笑しながら櫛を滑らせる志貴に小さくつぶやく。
けれど、鏡に映る自分は確かに微笑んでいた。

「浴衣、似合ってるよ」

といっても、そんな言葉を言われたら真っ赤になるほか無いのだが。





「っと、こんなもんでいいかな?」

そうこうしているうちに、まだ少し水気を持っていた髪はさらさらとしていて、時間の早さに唖然とする。
やはり、楽しい時間は一瞬らしい。

「ありがとうございます。志貴」

「いえいえ」

まだ顔が赤い。
両手で顔を隠し、欠伸をしたフリなどしてみせる。

「あはは、お疲れさま」

だからといって、そうやって梳いたばかりの頭を撫でるのはいかがなものか。
しかし、なぜだかその感触が気持ちよくて本当に眠りそうになる。

「子ども扱いしないでください」

ささやかな抵抗。それすらひらりといなして、志貴は薄く笑いながら布団に潜り込んでしまった。

「まったく貴方と言う人はもう少し女性の扱いというものをですね…」

説教しかけてやめる。こういった類を説いても彼に対する効果はまったく無い。
対して大きな欠伸をした志貴は、布団の中で思い出したように体を起こした。











「そういえばさっき、風呂で変な人に会ったんだ」

怪訝な顔をするシオンをそのままに、志貴は眼鏡の蔓を人差し指で上げる。

「この眼鏡のことも魔眼殺しだって知ってたみたいだし」

なんでもないような声音で呟かれた台詞に、シオンは驚愕の顔を呈した。
そうしておもむろにエーテライトを取り出すと、無言のまま志貴のこめかみに接続した。

「痛っ、ってシオン…またそれか」

呆れた表情の志貴を無視して、シオンは焦った様で志貴の頭のなかを詮索している。






魔眼殺しを知っている、ただそれだけでも普通の人間ではないということが志貴には理解できないらしい。
もしかしたら、その魔眼殺しの下にある彼の魔眼を見抜かれてしまっているかもしれない。
悠久の時を過ごしてきたアルクェイドや、そういったものたちを相手にしてきたシエルでさえ彼以外には見たことが無い魔眼。

直死の魔眼。

存在するモノすべてには、それがそれとして成立した瞬間から何かしらの意味を持ち、最期を持っている。
人間が生まれ、死ぬように、モノには始まりと終わりがある。
直死の魔眼は、有り体に言えば、そのモノに内包された死を見ることができる魔眼だ。
彼らにしか見えない、モノに走る点、点と点を結ぶ線。それを斬ったり突いたりすることにより、モノを殺すことができる。
常人には理解の及ばない能力であることは確かで、線を切れば切断、点を突けば死を齎す。
存在自体の意味を消滅させることに近いその行為。
殺された部分は決して蘇生せず、また斬られたり突かれたりした瞬間に効果が現れる。
対象が硬く、存在として強大であろうとも、終わりがあるならば直死の魔眼は例外なく死を見出す。
故に、万物を殺すことができる。

そんな強大な力を、放っておく者などいるのだろうか。

先の映像、音声、記憶。
おぼろげな様子をさかのぼって行く。

露天風呂、志貴に馬乗りになって眼鏡を剥ぎ取ろうとする人物を主観で見た瞬間、シオンは背筋に悪寒が走るのを感じた。

「蒼崎…橙子…」

「蒼崎…?」

苗字に引っかかるものを感じたのか、問い返した志貴に、シオンは壮絶な顔で答えた。

「ええ、出来ればかかわりたくない部類の人間です」













後書き


酷い言われような橙子さん。

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