乱暴に切りそろえられた髪を不機嫌に揺らしながら、両儀式はこれまた輪をかけて仏頂面で歩いていた。
彼女が肩を怒らせている理由は二つ。

一つはこのホテルの料理が口に合わなかったことだ。
妙に和洋折衷を通していた食卓には無駄に多くの皿ばかりが並べられていて、見ているだけで酔ってしまいそうだった。
特に山菜の煮付けは酷かった。
春に採れた山菜を保存するには塩漬けなどにするのが一般的だが、どうにも塩抜きをいい加減にしていたようで、とてもではないが食えたものではない。
せめて濃口の醤油を出汁醤油にしていたなら、幾分かはマシだったろう。
次いで箸を置いたのが刺身の作り。
なんとも着色料じみた色と生臭さを見て取った瞬間に、食卓を蹴り飛ばしてしまいそうになったくらいだ。

というわけで、彼女は今たいそうお腹が寂しい状態にあったりする。
残念なことにこのホテルには売店はなく、同じくしてコンビニも山を降りなければ出会えないとのこと。

彼女にしては珍しく、大きな溜め息を吐いた。
その溜め息の原因は、先の二つ目の理由にあった。

この山に入ってから、もう随分と式は幹也と口をきいていない。

スキー板を履いて早々、橙子の後についてしまったり、食事時などは出てきた料理に幸せそうな顔をしていたり。
―――ともあれ、あんな料理で眼を輝かせていたのが気に障った。
次の逢瀬では絶対に美味い物を作ってやる、といった並々ならぬ決意を式に抱かせている。

せっかくの遠出だというのに、この調子だといつもと同じか、それ以下だ。

もう一度大きく溜息を吐く、腹の虫がそれに重なる。
何時になく虚しい気分だった。

このまま二泊もするのか、と考えると退屈で仕方ない気がする。
どうせ幹也は明日も橙子にべったりで、鮮花は鮮花で颯爽と銀世界を滑っているのだろう。


―――退屈だ。


―――退屈だ。


―――いや、やっぱり退屈じゃなかった。


式は、目の前を横切った金髪の美人を見た瞬間、そう思わざるを得なかった。











【シオンの苦難】

第二十話「狼狽」













紅い眼。魅入られたのはまずそれだった。

綺麗なアーモンド型の眼と、メリハリの付いた美しい眉。
卵型に体良く収まった鼻と口、すべてを見た瞬間に感じたのは、この女は怖いくらいに完璧であるということ。
小さく巻き起こる風と瞬間にたなびく、生粋の金糸はセミロングで、自分より少し長い。
厚ぼったい白いセーターと、臙脂色のスカートから生えるスラリとした黒いストッキング。
それらに覆われた体の輪郭はまさに自分の理想と寸分の狂いもなく合致していた。

楽しげな様子を漂わせた口の端に、思わず見惚れてしまう。
人工的な…口紅やらなにやらの類は使っていないのに、秀麗な形で潤いを湛える白桃色の唇。
思わず奪ってしまいたくなる。怖いくらいに整った顔のパーツ。

―――本当に、奪ってしまいたくなる。

ゾクリ、と背筋が粟立った。

…アレは規格外だ、自分の手には余りすぎる。
しかし、この機会を逃したらそれこそ一生お目にかかれないくらいの極上品。
ならば今しかないだろう。そうだ、今しかないのなら逃す手はないだろう?

茫然自失としていた式は、知らず知らずのうちにポケットを弄って確かめていた。
…冷たい、金属の手触りを。



ロビーを抜けて階段を上る、足音なんて無粋なものを殺してただひたすらに彼女の後ろ二メートルを歩く。

彼女の足取りは優雅で、何かのステップでも踏んでいるかのようだった。
軽やかな蝶々は、常に楽しげに歩く。

すでに式の眼には彼女しか映っていなかった。
無数に走る亀裂が入り乱れる世界の中で、彼女はたった一人だけ綺麗だった。

三階で廊下に出る。

狭い天井が急かすように気分を焦燥させ、イラつかせてくる。

立てかけられた消火器を過ぎる。

非常灯の緑を体いっぱいに浴びる。

焦らすのは、もういいだろう。

高揚に昂ぶる体は少しずつ落ち着きをなくし始めていた。


傍から見れば変な人間だと思うだろう。音一つなく、美しい女を興奮した雄の様な顔で追う女。
けれど、式にとって今はそんな瑣末なことはどうでもよかった。

そう、まるで双六。
先行する彼女を追いかける式。
サイは一歩ずつ振られて、そのつど上がりに近づいている。
その終点はきっと、式に無類の歓喜を与えてくれるに違いない。

女が角を曲がったところで、式はポケットの感触を今一度確かめた。
握り続けたせいで人肌の温さを持ってしまったナイフは、出番を今か今かと待ちわびて忙しない。

と、鋭い刃を親指でなでたとき、なぜか頭の中に温厚な顔をした青年の顔が浮かんだ。

「…っ」

関係ない。
このチャンスは多分一生で一度しかない、だから仕方ない。
思い浮かんだ顔を無理やり振り払う。

角を曲がったとき、なぜか脳裏に「駄目だよ」と、聞こえたような気がした。

耐えかねた自制心の縄が解かれる。

ポケットに忍ばせていた生ぬるいナイフを逆手に構え、振り上げてそのまま―――――

























「ねー志貴、今晩いっしょに寝よ」

「わ、馬鹿! くっつくなって!」

「いいよーって言うまで離さないもんねー!」

「あーもう、勝手にしろこの馬鹿女!」


























固まってしまった。

時代錯誤な黒縁眼鏡に温厚な顔立ち。流行など知らぬ存ぜぬといった髪形。
面をいくらか紅潮させつつ、まんざらでもないといった様子で金髪の女性をいなしている男。

気分が急速に萎んでいくのが自分でも分かった。
絶頂を迎えそうなくらい熱かった体は、暖房の回ってない廊下のせいで大分冷めてしまっている。
震えながら下がってくるナイフを今一度ポケットに入れると、言いようのない思いが胸を踏み荒らした。

自分は女性として及第点に至ってないかもしれない、が、それでも…。
それでも、その男がそんな金髪女にデレデレしているのが、何故だかくやしかった。

口をへの字にすると、式は早足で踵を返した。




















ばふっ。

敷いてあった布団にうつぶせに飛び込む。
しかしながら、事のほか薄い敷布団のせいで少し鼻を打ちつけてしまった。
情けないと自身を嘲ることも忘れ、式はただ、もやもやする胸のうちを吐き出したい気持ちでいっぱいだった。
仰向け、大の字になって天井のシミを数えて半刻。
ようやく帰ってきた橙子を見止めると、式は起き上がった。

「随分長風呂じゃないか」

「…うるさいな」

何時にもまして顔色の悪い橙子の答えに、首をかしげる式。

「…?」

「いろいろあったんだよ、まったく……ぃっくしゅ!」

意外と可愛らしいくしゃみを一つすると、橙子は鼻を一つ啜って布団に勢いよく腰を落とした。
やっぱり敷布団が薄かったせいか、一瞬顔をしかめた橙子を、式は確かに見た。

「いろいろってなんだよ?」

ジロリと式を一睨みすると、橙子は数瞬考えて告げた。

「そうだな、自分がバラバラになる幻覚さ」

「…そいつは面白い」

「それは私がバラバラになることか? それともヒトがバラバラになることか?」

「両方」

「…結構」

うんざり、といった様子で、橙子はらしくもなく肩を落として溜息を吐く。

「いやにリアルでね、今でもハッキリと思い出せる」

「ふうん、で。どんな感じだ?」

俄然膝を進めてくる式に憮然としながらも、橙子は己の人差し指を立てて見せた。





「ここから…ここまで」

右側頭部こめかみより左顎関節。

「ここから、ここ」

左側鎖骨より左上腕。

「で、ここは丸ごと持ってかれて」

右乳房。

「ここ」

左肘。

「こう」

左手首。

「こういって」

右薬指から小指。

「それから、ここからここ」

左上から四本目の肋骨より右骨盤。

「ここから一気にこう来て」

股間より右太股。

「ここは二つとも」

両膝。

「それで、ここ」

左足親指。

「ここと」

右足首。

「ここ、って感じだな」

右足中指から薬指――




鮮明に思い出せる切り口を、橙子は無造作に、人差し指でなぞって見せた。

今思い返せば、あの切り口はとんでもなく鋭いもので切られたように思えてきた。
切断応力によって生じた歪もなければ、切られた瞬間の出血もなく、ただ重力に負けてずり落ちた接合点。
骨も筋肉も関係なく、切り口は異常なくらいに綺麗なものだった。 

それに、最期の最後でみたあの少年の眼は美しい青色をしていた。
蒼崎橙子謹製の魔眼殺しをかけていたということもあって、ヘタに眼鏡をはずしたことを今更になって後悔する。
平和そうな顔をしていた分、魔眼殺しで隠すべきものの存在を失念してしまっていた。
不意打ちとはいえ、あれほど絶望的な幻覚を見せられるとは、余程高位のものか。

思考に没頭していたことに気づいて、はたと黙りこくってしまった式に気づく。
彼女は神妙な顔でなにやら考えているようで、彼女の好きな殺人の話題だというのに返事がない。

「どうした?」

なぞり終わった手を置いて、橙子は疲れたように問うた。
すると、式は顔を上げ、心底楽しそうな笑みを浮かべた。

「そいつ、魔眼持ちだろ?」

「ああ、それもかなり強い邪眼の一種だな」

一瞬、きょとんとする式。
眼を伏せる橙子に首を振ると、式は断定的な口調で呟く。

「いいや、違うね」

「違う?」

聞き返す橙子に、式はニヤリと笑って見せた。

「ああ、それも絶対に」

確証は十分すぎるほど。










「そいつは、直死持ちだぜ」

橙子が先ほど自身でなぞって見せた軌跡は、式にとって橙子自身が自分を死に至らしめようとしているようにしか見えなかったからだ。




















後書き


こんなふうに進んでいきます空の境界×月姫ストーリー。
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