『それは、人が外の世界から居住空間を確立した集まりであって、そこには様々な建造物が見られる。』
『元々は明確なボーダーラインというものが存在しなかった自然界に、人間は己の存在を守るため、街というテリトリーを作り出した。』
『いわば縄張りともいえる、その空間。』
「何ブツブツ言ってるんだ?」
志貴の隣を歩く…という、シオンにとって人生唯一の至福を貪ることは、同時に、彼女の思考を氾濫させることだった。
要するに、間が持たないのである。
彼女が今頃の時事、企業などの情報を仕入れているならばおそらくこんなに苦労することはなかっただろう。
志貴に研究の細かい話をしても右から左に抜けることは既にわかっているし、逆にシオン1人で延々としゃべるのも気が引けたらしい。
不思議そうな顔をして問いかける志貴に対し、シオンは未だ思考の海へとダイブしていた。
実際、此処数ヶ月の間、研究にばかり打ち込んでいたシオンだ。
最近の流行、ニュース、事件なども知らない。
穴倉とまで言われるアトラスの錬金術師の中でも、そういったものはあった。
だが、そんなものを見る暇がなかったのだ。
アトラスに戻ったシオンは即に反省文を書き始め、何とか研究を続けられるような手続きをし、その後に吸血鬼化防止の研究に打ち込んでいた。
眼の回るような忙しさの中で、一切の無駄を省いていたその行為は、時事などを無駄、と判断したのだろう。
無論、エーテライトを差し込めば多少のことはわかるだろう。
しかし、それでは「血液」を「知識」と入れ替えただけで、吸血鬼と等しい。
他人から盗むしかない、というのはシオンの自尊心を大きく傷つけた。
だから、シオンは今まで一度たりとも吸血行為を行ったことはない。
吸血衝動は、タタリ…すなわちズェピア・エルトナム・オベローンを屠ったことでいくらかは制御できるが。
第二話「彼女は笑った」
はっと、シオンは鎌首を擡げた。
「喫茶店…ですか。」
赤面していた自分の顔を見られないようにしていたのだが。
考えを他方へと向けることで、シオンは思考を平常に切り替えた。
確かに、喫茶店ならば値段も安くあがるし、雰囲気も悪くはないだろう。
小腹が空いているところだったので、コーヒーとケーキも捨てがたい。
「そ、ゆっくり話せるだろ?」
自分の提案したことに笑う志貴。
だが、その後に付け加えた。
「少し、お腹減ってるし。」
「全く、志貴はそういうことしか考えられないのですか?」
シオンが呆れた顔で小言を呟く。
しかし、その言葉とは裏腹に何故か彼女は安堵していた。
喫茶店で1人だけ注文をするのも、気が引ける。
「酷いなぁ、これでも高校生なんだから。」
「その回答は、予想済みです。」
「もしかして、エーテライト挿してる?」
怪訝な顔をして問う志貴に、シオンは朗らかに笑って言った。
「いえ。」
と、これが数分前の会話である。
しかし、現在の二人には会話らしい会話はなかった。
飄々としている男と、顔を俯かせて真っ赤になっている女。
傍から見れば奇異な取り合わせに違いない。
時折志貴がシオンに話しかけてはいるが、シオンは生返事も返さない。
アトラスに戻ってから、シオンはひたすら志貴を思っていたのだから、
その反応は年相応のものかもしれないが。
夏にはこんなに意識していたわけではないのに、どうにもシオンは感情を自覚してしまうと加速させてしまうらしい。
過去、自身が志貴に好意を持っているのだと自覚した時が良い例だ。
だが、彼女は対人関係については不器用なので、つい本心とは逆の文句を並べてしまう天邪鬼なところはまだまだ子供である。
好意、つまりは「好きだ」ということ。
ならば、その天邪鬼も「ガキ大将が好きな女の子を苛めたくなる」心理だろうか。
アーネンエルベ。
志貴の頭に浮かんだ喫茶店というのは、この店だった。
過去何度か来た事はあるものの、小奇麗な店内も遠野の屋敷には及ばない。
応接間だけでこの店を買いきれるくらいの調度品。
こういうときに限って、遠野の金銭感覚の恐ろしさを思い知ったりする。
「さて、何頼もうかな。」
席に着きつつ、志貴はなんとなく呟いてみる。
が、財布の中身とは折衝がついていた。
最初にはじき出したオーダーは、水。
とても丘の上に豪奢な屋敷を立てている遠野の長男とは思えない発想だった。
むしろ有間にいたころのほうが金銭的には余裕があったと思われる。
でも、志貴は悩んでいた。
眼の前に友人がいるのに、水を頼むとはいかがな物か。
体裁を気にするわけではないが、それではあまりに自分が寂しい。
財布への損害が少なく、かつ安価であるもの。
この場合、喫茶店という雰囲気を破綻させずに、自然である物…
紅茶。
…それでも屋敷では食後に出てくる物だと思うと、何故か悲しくなってきていた志貴だった。
学食でうどんに油揚げを乗せなかったり、購買でコッペパンを買ったり。
そんなこんなでちまちまと貯めていた福沢諭吉さんに満たない夏目漱石さん幾人。
菓子。それもなるだけ値の張らない物。
ここまで考えて、志貴は自分に嫌気が差した。
「俺は…この…ラズベリーパイと紅茶にするよ、シオンは?」
苦渋の選択に悔いを残しつつ、志貴は問う。
「私も、それと同じ物を。」
対するシオンは、品書きも見ずにそう答えた。
暫くして、二人の間にあるテーブルにはラズベリーパイと紅茶が二つずつ置かれた。
シオンは相変わらず会話らしき会話をかけては来なかったが、
テーブルに置かれた物をみて、ものめずらしげに見始めた。
「こういうのは初めて?」
彼女の様子に、志貴は表情をほころばせる。
言葉を聴くと、シオンは一つうなずいた。
「はい、知識として知っていましたが、実際に【アーネンエルベのパイ】を見るのは初めてです。」
ひとしきり観察を終えると、シオンはパイを手に取った。
「頂きましょうか。」
「そうだね。」
良くビジネスで使われる【ランチョン・テクニック】という物がある。
これは、会合などで食べ物を挟んで行うものだ。
食べ物、というのは食べて美味しければ一種の快感を得ることが出来る。
その快感で気分を高上させ、会話を円滑に進めるのである。
無論、食べ物が不味かったり、雰囲気が悪かったりすれば逆効果であるが。
会話を円滑に進める以外にも、折衝などでは好成績を収められることもある。
はたして、志貴はそんなことを念頭においていたのだろうか。
…多分、置いていない。
だが、ぽつぽつと会話の数は多くなり、内容も話し手もシオンが主体になっていった。
「アトラスに戻ってからはどうだった?何かあった?」
「ええ、直に反省文を書かされました、厚さはこのくらいでしょうか。」
シオンが紅茶のカップをソーサーに置き、右手の人差し指と親指の間を8センチほど開いて横に寝せたUの字を作って見せた。
「へぇ、俺は作文とか苦手だからなぁ…」
原稿用紙の厚さからしても、その厚さは凄まじく、志貴は辟易した顔で答える。
すると、シオンは悪戯を楽しむ子供のような顔で返した。
「ふふ、志貴は数学も苦手ではないですか?」
「え!?どうして解ったの?」
「…勘です。」
驚きを隠そうともしない志貴に小さな笑みを浮かべ、頬杖をつきながらシオンは続ける。
「しかし、研究場所として…やはりアトラスはいろいろと無理が聞きましたね。」
声のトーンが深まったシオンの話に、自然と志貴も聞き入った。
「そうなの?」
「主席の座を剥奪されそうになりましたが、現状ではまだ私以上の成績の者が無かったので、
暫定的ですが私がアトラシアの名を今でも持っています。」
「大変だった?」
「ええ、それはもう、毎日が眼の回るくらいの忙しさでした。」
言葉を一旦切ると、シオンは志貴の眼をちらりと見る。
魔眼の眼としてではなく、澄んだ色の眼を。
「ですが、苦にはなりませんでした。」
「どうして?」
怪訝そうに聞き返してくる志貴を見て、シオンは頬を朱に染める。
軽く俯いて、彼女は短いスカートの裾を弄りながら、落ち着かない様子で言葉を濁した。
「それは…その、志貴が…」
「俺がなんかしたっけ?」
あっけらかんとした志貴の顔。
それを見たシオンは、途端に耳まで真っ赤に染める。
少々涙目になると、彼女は語気を荒げた。
「なっ、何でもありません!」
そんなシオンに首をかしげながら、志貴はラズベリーパイを口に運ぶ。
シオンの中では、自律思考の全員が葛藤を始めていた。
『こ、こんな人の大勢いるところで…そんなこと恥ずかしくて言えません!』
恥らう一番。
『嘘仰い、本当は言いたくてしょうがないくせにー!』
煽る二番。
『志貴はニブチンなんだからどーせ伝わらないってばー。』
消極的だが、何故か照れている三番。
『言いなさい!言うのよシオン!』
握りこぶしなんて作って応援する四番。
『でも、志貴に嫌われていたらどうしよう、嫌な女だって思われないかな?』
臆病で慎重派な五番。
『既成事実作ったらこっちのもんよー。』
何故か違う方向の六番。
『ラズベリーパイと紅茶って結構合うわね、まさに私と志貴…ああぁ』
トリップしながらクネクネと身をよじらせる七番。
「カットカットカットカットカットカットカットー!!!!!!!」
顔を茹蛸のように真っ赤にしながら、シオンは怒号を上げた。
「それ以前に6番!ちがうでしょーがぁ!!」
悲鳴に似た叫びを上げつつ、シオンは立ち上がった。
その際に、座っていた椅子が弾きとんだ。
「シオン、シオン座りなって。」
周囲の刺すような視線に耐えかねたのか、志貴がシオンを諌める。
荒く肩で息をするシオンに、志貴は「やっぱり血には抗えないんだなぁ」と、かなり失礼なことを考えていた。
タタリ、すなわちズェピアを葬った時、カットと何度も叫ばれたことを思い出しながら。
「随分賑やかなティータイムですね、遠野君。」
対照的に、今度は冷静な…というより明らかに冷たい声が志貴の耳に入った。
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