―――
まったく持って人生とは奇怪な縁のめぐり合わせらしい。
蒼崎橙子は、冷めてしまった頭の中でそんなことを考えていた。
消え入るように表情がなくなって行くのが自分でも分かる。
入れ替わりに頭に漂ってくるのは、怒りとか、憎しみとか、そんな理不尽なものだった。
先ほどから抱いていた疑問も吹き飛んで、彼女はただ、目の前にいる少年の眼鏡を凝視していた。
時代錯誤な黒縁眼鏡。
少年、遠野志貴の顔にかかっている眼鏡は年季の入った代物らしく、ところどころに小さな傷が目立つ。
眼鏡の奥の童顔が、いきなり気勢を削がれたかのように固まっている橙子を見た。
この少年が何者なのか、何故こんなにも痛々しい傷を負っているのか、そんなことはもうどうでも良い。
新しい疑問は、彼の黒縁眼鏡にすべて集約されていた。
度がまるで入っていない伊達眼鏡、いや違う。
もともとその眼鏡には度を入れる必要はない。それ以前にその眼鏡はものを見るために掛けるようなものでは決してない。
平面のレンズは、普通の人間に無用の長物であった。
いわゆる、魔眼殺しというものである。
魔眼とは、本来外界の情報を取り入れるだけの器官であるはずの眼が、外界に働きかけたりするものをいう。
特別なものが見えたり、見た相手に影響を与えるもので、大概ろくなものがない。
最も分かりやすい例えは神話上の存在といわれている怪物、メドゥーサか。
目のあった者を石に変えてしまうといわれている、石化の魔眼の持ち主だ。
そして、魔眼殺しとはその魔眼を封じるための道具にあたる。
材質は問わないが、眼本来の機能を損なわないためにはそれを透明なものにしなければならない。
カモフラージュとして、一般社会でも通じるものが、眼鏡だった。
だが、橙子を沈黙させているのはそんな分かりきった常識でも、陳腐な理由でもなかった。
眼鏡にある、不恰好な銘。橙子は、はっきりとそれを認識してしまった。
【シオンの苦難】
第十九話「真実、危険な衝突」
「…どうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
沈黙に耐え切れなくなったのか、少年が恐る恐る声を上げた。
耳触りの良かった声は今や、橙子にとって耐え難い小鳥の囀りに似ている。
内心煮えたぎるものを孕みつつ、橙子の言葉のトーンが落ちた。
俯きながら眼鏡を取って、浴用タオルの上に置く。
「でも、少しヘンですよ?」
「ああ、そうだな。ヘンかもしれないなぁ」
突然変わってしまった橙子の声音に、志貴は怪訝な顔をしつつ先ほどまでの橙子の面影を必死に探そうとしていた。
けれど、それも徒労に過ぎない。彼女は完璧に自分のスイッチを切り替えてしまったのだから。
一般社会に通用する蒼崎橙子は為りを潜めて、今はもう一つの社会に現す顔が鎌首をもたげた。
「でも、ヘンなのはキミもだろう、遠野志貴?」
「…?」
先のやり取りのように、無邪気な戯れを思わせる言葉。
嘲りか、侮蔑に取って代わられた響きは、聞く者を不快にさせる声色だった。
それでも志貴は首をかしげて橙子を見ている。
「キミは、そんな眼鏡で何を隠そうっていうんだ?」
「!」
水面が忙しくゆれた。
「何、私も気が長いほうでね。キミを直ぐに取って食おうなんて思っちゃいないさ」
ざらつく言葉尻に背筋をなで上げられて、志貴は短いうめき声を、あるかないかさえも定かではないくらいのうめき声を上げる。
ほう、とここで橙子は今抱いている感情とは別種の思いを覚えて、軽く嘆息した。
言葉どおりに行動を自粛するほど、蒼崎橙子は温い種類の人間ではない。
それを、目の前の少年は感じ取ったのか、彼は尻餅をつくような動作でもっとも良い退路を確保していた。
本能的なものだとしたら、これは素晴らしい直感だといえるだろう。
「簡単な質問にさえ答えてくれれば良い」
驚きの含まれた顔で多少ならずも警戒する少年を、諭すような口調で橙子は告げた。
「質問?」
「そうだ」
諸手で志貴の顔を掴み、自分の面と付き合わせる。
「その眼鏡、どうやって手に入れた」
抑揚の少ない、機械的で底冷えするくらいの言葉を浴びせかけた。
そうしたところで、橙子はまた一つ感心したように軽いため息を内心で生んだ。
殺気を存分に盛り込んで、凄みをきかせた文句だったのだが、矛先の少年は大して怖がるそぶりを見せない。
一応はこうした体裁を取り繕っているが、気分が害されたら本当に“そう”してしまうかもしれないというのに。
「アンタ…一体…?」
今度は志貴が問う番だった。
「質問には答えを返すものだよ、遠野志貴」
皮肉な物言いで目の前の子羊を嘲笑う橙子。
「俺は…普通の高校生だ」
「普通の高校生はそんなものを必要としない」
断定的な言葉。
志貴は一瞬反論しようとして、すぐさまその言葉を飲み込んだ。
そんな様子を見て、橙子はさも面白そうに喉の奥で笑う。
「なんだ、自分でも分かっているじゃないか」
一頻り笑うと、彼女はまた眼を開いて正面をにらみつけた。
「まぁ、いい。ならば話題を少し逸らすとしようか?」
「…?」
意外と淡白な物言いに、肩を掴まれていた志貴は不思議そうに首をかしげる。
すると橙子はまるで志貴の反応を愉しむかのようにして言葉をつむいだ。
「その魔眼殺しはね、元々は私のものなんだ」
愉快極まりないといったふうの橙子の口上は、志貴にとって違和感しか覚えさせなかった。
クツクツと喉の奥で真意の読めない笑みを繰り返している彼女。
先ほどは鋭利な矛のように、剥き出しの敵意を叩きつけてきたというのに、今は何が楽しいのか堪え切れない笑いをかみ殺すのに必死だ。
だが、影の落ちた笑顔には、先の人当たりの良さそうな目尻は見えない。
表情筋を無理やり持ち上げたハリボテの笑顔、その下に隠れているのは、
…隠れているのは、どうしようもない、憤怒。
「それが、何故。君の目に掛かっているのか」
志貴の両頬に添えられていた、橙子の諸手が、扇情的に肩に流れていく。
そして、何の前触れもなく志貴の体が飛んだ。
「なっ!? …がっ!!」
「とても、とても興味がある」
幾年待ちわびた、とでも言うかのごとく、氷のように冷え切った石床と濡れた背中は熱い出会いを果たした。
事実身を切る冷たさをもった石床は傷だらけの背中を引っかき、情事のような爪あとを残す。
一瞬、呼気が死んだ。
渇いて飛び出たそれは短く、それでいて直ぐに冷たくなっていった。
背を叩かれて抜き出た息。思うように冴えない自分の体に毒づこうとも、まずは空気を貪るのが先だった。
「かっ…はぁっ!」
痛い。
何故。
二つの言葉が真っ白な頭中を踊り狂う。
支離滅裂な事態に混乱している志貴を尻目に、志貴を突き飛ばした橙子は含み笑いを零したまま水面から立ち上がった。
「いや、もうそんなことは…どうでもいいか」
笑みを崩さぬままで、彼女はゆったりとした足取りのまま、未だ上手く息をしない志貴に跨る。
「返してくれないか? これでも気に入ってたんだ」
そういって、少年の目に掛かった眼鏡を毟り取った。
途端、バラされた。
完膚ないくらい、完璧なくらい、非の打ち所がないくらい、思わず見とれてしまうくらい。
なんて綺麗なんだろうと、自分の体ながら思ってしまう。
血は出ない。出ない? いや、出ないのではなく、まだでていないだけで。
そう、そのくらい鮮やかで、華やかで、軽やかな。否、ここまでくればもう一種の芸術。
噴水よろしく、真っ赤な色をした間欠泉が熱く飛沫を上げる。
重力を知覚しているなら、体がとてつもなく軽いことに気が付いて、それは何故だろうと思って考えるのをやめる。
―――
ああ、そうか。
当たり前のこと。至極当たり前なことなのに頭はまだまだ緩い答えを出せずにいた。
あまりにそれが早すぎて、思考が追いついていない。
思わず見とれてしまう。
心を捉えて離さない芸術、背徳、それらはすべて今この瞬間だけに凝り固まっている。
画質の良いカメラでも決して収められはしないこの瞬間。
この瞬間をパネルに押し込んでしまえばきっと誰の心でさえ、鷲づかみにして、握りつぶしてしまうくらい素晴らしいもののできあがり。
未だかつて誰も表現できなかった方法で、今この瞬間は現されているのだから。
右側頭部こめかみより左顎関節、左側鎖骨より左上腕、右乳房、左肘、左手首、右薬指から小指、左上から四本目の肋骨より右骨盤、股間より右太股、両膝、左足親指、右足首、右足中指から薬指
――
。
―――
これは―。
ずるずるとスライドしていく自分の体。どろりとにじみ出る生暖かいモノは。
ボチャリと、耳障りな音を立てながら自分が作った血だまりに沈む。
パシャ、ボドボドボド、パシャ、ピチャ、ピチャ。
かろうじてとどまってくれている眼球が、卑しくも虚空を見上げた。
―――
悪い夢だ―。
その先には、綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な綺麗な青色の眼をした、少年の姿
―――
。
「な…」
後一瞬でも遅ければ、失禁していたかもしれない。と、橙子は呆然とした頭で考えた。
毟り取った眼鏡を奪い返されて、一瞬だけ覗いた遠野志貴の眼を見た途端、明確な未来が見えたような気がした。
それは、彼の明確な意思なのか。明確なビジョンは驚くくらいに鮮明で生々しい。
頭に浮かんだ綺麗な切断面は、感嘆するくらい死んでいて、同時に気違いじみた歓喜が自分の脳裏に蔓延るのが感じられた。
あの芸術品の一部になれるのならば、いっそ死んでもいいと告げている。
恐怖とか痛みとか、そんな幼稚なものではなく、もっと崇高で良く分からない願望が黄色い悲鳴を上げていた。
…怖気が走る。
その一瞬の間隙を、遠野志貴はすり抜けていった。
「あっ…」
皮がむけたのか、小さな出血が見られる背中を見て、橙子はようやっと金縛りにかかったような体を動かすことが出来た。
逃げられる際突き飛ばされた体は浴場の石床に叩きつけられたが、不思議と痛みは感じない。
ちょうど正面に広がる露のような星を見上げる形で、彼女は必死に言い聞かせていた。
自分は、魔術師だ。
それになにより、自分にはコピーが存在する。
だから、こんなにも体が震えるのはあの眼に怯えたからじゃない。
―――
ただ、背中にあたる石床が冷たかっただけだ。
「全く、とんだ因縁とかかわってしまったものだ…」
嘯く様を漂わせながら、橙子は震えた声でつぶやいた。
後書き
ちなみにちゃんと十七分割だったり。
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