割合に新しいホテルの外観は、雪山に溶け込むかのように真っ白だった。
それでも入り口の融雪シートの緑色が嫌に人工的で、切り分けられた自然と人工物の境目には生理的嫌悪を禁じえない。
直角で形成された建物は、白に紛れていても何処となく不釣合いであった。
本来あるべき自然を否定して存在するその建物には、一切の温かみがない。
ウサギの足跡すらある山だというのに、白亜は風情という物をことごとく無視しているような、そんな気がした。
一昔までは観光といえど目ぼしいものもなく、唯の寂れた片田舎だった界隈。
ところが、都心の開発が飽和状態に陥るに連れ、今度は地方に脚光が向いた。
丁度地域が寂れていたためか、村おこしで客を呼び、それから都心より十年遅れた開発が進んでいった。
偶然にも、その時期が新幹線の路線延長の機会と重なり、故郷を持たぬ人の故郷への憧れと相まって観光客は右肩上がりに増え始めた。
となれば、こういった期間限定の宿泊施設は林立して然るべきか。
物を売る職の者は外から来る者の財布を当てに生活するしかなく、過去の街並みとは大きくかけ離れてしまっている。
都会から来る人には、田舎の何もないということが珍しい。田舎の人はそれに対して娯楽を提供した。
文明人の足が止まるところには何かをおき、便の良いところには宿を建てる。
元々存在していたものを新たに上書きしてしまったために、上っ面の下には何があったのか、そんなことは忘れ去られてしまっているのか。
吐息が白い。
「そろそろホテルのほうに行こうか。日も落ちそうだし」
一同が会した時、志貴は山の中腹辺りを見上げて告げた。
【シオンの苦難】
第十八話「交錯」
冬の夕暮れは早い。
スキー場にはナイター可能な設備もあったが、流石に一日中遊び倒してしまったのが響いたか、宿へ向かう頃合となった。
「はー、もうくたくたですー」
レンタルスキーを返却して、靴を履き替えた琥珀の開口一番の科白はそれだった。
山の麓に位置する白壁のホテルはさして豪華でもない内装で、値段も見ればそれ相応のものとして納得できる。
「そういえば、部屋のほうはどうなっているの?」
珍しく伸びをしていた秋葉は、楽しそうに辺りを見回すアルクェイドを一瞥して問うた。
「お部屋のほうは、個室が取れなかったので二人で一つの部屋となってますねー」
「なっ、それでは兄さんが相部屋になる可能性もあるじゃないの!」
「私は別に構わないけど?」
何となく告げられた言葉に、秋葉は驚いたように反駁してみせる。
と、今度はアルクェイドが秋葉に意味深な笑みを見せた。
「くっ」
その笑みを余裕と取ったのか、秋葉は複雑な顔でアルクェイドを睨んだ。
しかし、アルクェイドはそんな目など何処吹く風で口笛など吹いている。
「まぁまぁ、志貴さんだってこんな旅先で獣になったりはしませんよねぇ?」
いつもの癖で口元を隠しながらくすくすと笑う琥珀に、志貴はウェアの中にいるレンを撫でて「まさか」と一笑した。
そんなやり取りの間で、シエルと翡翠も含め全員がスキー板を返却してロビーに集まっていた。
困った顔をする翡翠を見かねてか、
「ここは早急に決めましょう。どの道部屋の数は変わらないのですから」
淡々とあげられたシオンのその一言で、すっぱりとカタがついた。
夕暮れと同じく冬の夜の訪れは早く、そして長く続く。
宵の時間を早々と塗りつぶした空には、それこそプラネタリウムのような星が瞬いていた。
それをさえぎる薄い雲は段々と闇に溶け込んで、時折欠けた月に霞んではそこにあるということをささやかに訴えている。
身を切るような寒さとは対照的に、湯船の水面から立ち上る湯気はとまる気配がない。
温泉でもない露天風呂。その癖作りはしっかりとしていて、庭園の趣を漂わせた上に雪がかぶさっていた。
生ぬるい湯に浸かりながら、気の抜けた様子で夜空を見上げる志貴。
満天の星空とはこういったものを言うのだろうか、と、見事なくらいに浮かんだ星に感嘆のため息が出る。
「来て良かったな…」
自分の屋敷から見られる星空も、これほどまでに星は多くなかった。
浴場には志貴一人。そのせいか、余計に夜空を見上げているような気がした。
というのも、れっきとした理由がある。
志貴の胸、心臓の辺りにある胸の傷を、おいそれと他人に見せるわけにも行かないからだ。
普通の傷ならばどうというものでもないが、志貴の傷は普通ではない。
出来てからもう幾年も経っているというのに、未だ塞がっていないようにも見える傷は、見られてしまったら救急車でも呼ばれかねない代物である。
故に、無理を言って自分だけ入浴の時間を遅らせてもらった。
だからといってのんびりできるというわけでもなく、早めに上がらなければアルクェイドたちに迷惑をかける。
「ふぅ、まったく。部屋割りなんかで揉めなくてもいいのに」
苦笑とともに思い出すのは、あみだくじ、じゃんけん、と様々な方法で部屋割りを決めようとしていた彼女たち。
修学旅行の光景を思い出して、少々感慨にふけったしまったのはいうまでもない。
じゃばじゃばと肩に湯をかけて、それから鼻の下まで浸す。
眼鏡が曇っていくのに気づくと、志貴は湯から上がり桶で頭から湯をかけた。
さて出るか、と手ぬぐいを拾って出口に向かおうとした矢先、行き先が何の前触れもなく開いた。
反射的に湯に戻り、肩まで浸かる。
慌ててしまった為か、股を隠していた手ぬぐいをそのまま湯につけてしまっていた。
「…あちゃぁ」
少し自分にあきれつつ、突然の来訪者に背を向けて手ぬぐいを縁の脇で絞って頭にのせる。
最中で、ちらりと後ろを盗み見た。
立ち上る湯気のおかげではっきりとは見えないが、掛け湯をする体の輪郭はしなやかで綺麗な形をしている。
だんだんと湯気が晴れてくると、ようやく濡れた肌が見えるようになってきた。
と同時に、志貴は勢い良く体を湯船に沈めた。
「あら?」
湯船の縁で掛け湯をしていた女性が振り向く。
「偶然ね、こんなところで会うなんて」
混浴だとは知っていたが、とりあえず瑞々しい体は隠してほしいものだ。
おかげでしばらくの間、志貴は湯船から出られそうになかった。
日中スキー場で同じリフトに乗りあわせてしまった女性は、オレンジ色の浴用タオルを縁の外において静かに水面をうがった。
成程、見れば見るほどいい体をしている。
垢抜けきった肢体は、熟しているという表現がしっくりくるようだ。
かといって肌の衰え具合などまったく見受けられず、志貴の周りの女性とはまた違った印象に少しばかり緊張した。
「あ、ええ。本当に」
ままならない体に内心毒づきながらしどろもどろに返す志貴を訝しげに見た後、その女性は暫時考え込んだ。
それから少しだけ笑みを浮かべると、波紋を広げながら志貴に擦り寄って言った。
「どうしたの、そんなに前かがみになって?」
意地悪な人だ、と志貴は苦笑いした。
「大分遅い時間ですけど、えぇと…」
「橙子よ」
「橙子さんは何で今頃露天風呂なんかに?」
顔を一つ張って壮大な夜空を望みながら、未だ背を向けたままの志貴が問う。
「少し、調べものの整理をしていてね」
問われた橙子はというと、志貴の背中を見ながら微笑して切り返した。
気温が低いせいか、浴場には多くの湯気が立ち込めている。
その湯気の隙間を縫って垣間見た志貴の背中にある傷の多さに気づくと、彼女は少しばかり顔をしかめた。
そんな橙子を知ってか、目線の先の男は能天気に声をよこしてくる。
「調べものですか、大変そうですね」
緊張感も何もない声。だが、今はそれがかえって心地よいものに聞こえた。
「まぁ、それほど大変な仕事じゃないんだけどね」
だから、眉間に皺の寄っていた顔も少しばかり緩んでしまう。
続けて、「はぁ、そうなんですか」と、これまた気の抜けた声はとても間が抜けているようで、橙子は久しぶりに笑っていた。
「そういえば、橙子さんって風呂でも眼鏡かけてるんですね」
「何言ってるの、キミだってそうじゃない」
会って間もないというのに、何故だか言葉が口をついて出てくる。
しかし、笑顔で振り返った志貴を見止めた瞬間、橙子の笑顔は凍りついた。
心臓に一番近い場所、胸の中央付近に出来た傷跡。
それは、志貴の屈託のない笑顔と同時に目に入れるにはあまりに錯誤しすぎた。
よくよく見てみれば、余分なものがない引き絞られた志貴の体にある傷の類は、正直言ってまともなものがない。
脇腹は、噛み千切られた跡に継ぎ接ぎしたような形、不自然である。
体中にある引っかき傷、切り傷、獣の歯型、鋭利な刃物で抉り取られたような傷、不自然である。
すべてが塞がっているだけに、すべてが現実なのだといやがうえにも思い知らされる。
極め付けが、胸の刺し傷。
ちょうど匕首程度の大きさの刃物で一突きされた直後のような傷の盛り上がり具合、赤み、視覚から得られる情報はそれを生傷と認識して絶えない。
こんな傷を煩いながら、何故、この男は、こんなにも、笑っているのか。
不自然だ。
それよりも、この男はどうしてこんなにも傷を負っているのか。
笑顔と凄惨な傷。相反する二つの要因が、橙子をさらに困惑させていた。
痕からして、胸の傷は致死的なものであることに間違いないはずなのに。
「キミ、その傷…」
「あ、やばっ!」
一瞬、橙子の目を見てから、志貴は急いで背を向けた。
しかし、見られてしまったという事実は変わらず。
「…」
「…あの、別に痛いわけじゃないですから」
「…嘘」
弁解じみた志貴の言葉に、橙子の本音が被さる。
「キミ…、一体何者なの?」
志貴の顔を覗き込んだ橙子は、今度こそ硬直した。
後書き
湯煙ってなんかいい感じ。ミステリーってな感じ。
さて、なんか橙子さんと志貴ばっかりですが、次の次くらいはアルクと式かそんなところで。
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