書類の山が眼に痛い。

その殆どは借用書や領収書の類なのだが、判子を押さないとならない。
どう見てもゼロが七つを超えているものもあれば、それこそ訳のわからないものの名前が書いていることもある。
加えて言えば五時間前からやっている作業なのに、ぜんぜん減っている気がしない。

しかし、今は溜息を吐く時間すら惜しい。

最近は寒くなってきたというのに、このコンクリートむき出しの壁は全く持って憎憎しいものである。
お陰で職場のデスクについている青年は、厚手のタートルネックの上にまた一枚ジャケットを羽織る羽目になった。

けれど、大学を中退しているし、親とも絶縁しているようなもので、働かなければ食っていけないというのもまた事実。

青年、黒桐幹也は何度目ともつかぬ溜息を隠そうともせず、伝票に蒼崎の判子を押した。

「どうしたの、幹也君」

声の主は、優雅な素振りで午後のお茶としゃれ込んでいる。
薄い青がかかったショートカットに似合わず、眼鏡の下の目は優しそうに幹也を見ていた。
ともすれ、とびきりの美人である。
だが、幹也はまた嘆息をはいて判子を一つ。

「いえ、そろそろお給料貰わないと。カップラーメンだけだとどうにも」

げんなり、といった感じが之ほど当てはまる男も居まい。
それこそ都市部に林立するビルのようにそびえる伝票の山、山、山。
それに一つ一つ眼を通して計算に誤りが無いか、電卓で確認しながら了承のサインを押すのだ。
そんな面倒くさい仕事を押し付けている、彼の雇い主である女性はそ知らぬ顔。
彼女は自らのデスクに置かれた、なにやら装飾の施されている調度品を眺めながらお茶と来たもんだ。

「で、また延滞ですか橙子さん?」

「そ、カンがいい幹也君って素敵ね」

不気味なくらい上機嫌だ。
本来なら難しい顔で、いっつもいっつも訳のわからない本やら資料やらを見ているのに。

「勘弁してくださいよ、これで三ヶ月目じゃないですか」

ぽろりと洩れた言葉に、橙子と呼ばれた女性は更に笑みを深める。
嗜虐の趣味があるのかもしれない。

「給料日前の大きな買い物は止めてくださいよ、苦労するのはこっちなんですから」

本当に堪ったものではない。
お陰で通帳は空っぽ、これでは来る家賃の徴収すら拝み倒して待っていただかないとならなくなってしまう。
幸い大家のほうとは親しく、話の解る人なのでたいした苦労は無いかもしれないが、流石に二ヶ月の延滞は不味い。

給料も払えない理由というのも、今橙子が鑑賞している調度品に起因する。
彼女はこれをもってきたとき、古代ローマの何たらかんたらで、まぁ、要約して素晴らしい価値があるのだと延々解説してくれた。
その嬉々とした顔を見るのは不快じゃないし、言葉少なの彼女が子どものように語るのもいい。
それでも、サラリーマンが一生働いても稼げない額面の買い物をポンポンすべきではないと、幹也は思うのだ。

電卓の数字を見て、またぺたしぺたし。

「しょうがないじゃない、千載一遇の機会を逃したらそれこそ苦労するわよ」

元々建設にかかわる橙子の表の仕事は、結構な額が動く。
といったところで先の買い物の額には到底届かない収入の時もある。
気分屋の蒼崎橙子さんは余程切羽詰っていない限り仕事をしない。

その気分屋さんの下で働いてから随分、彼女が真面目な仕事をしているのを見たのは右手で数えられるくらい。

そう、彼女はまともな仕事をしない。












【シオンの苦難】

番外編「あなざ〜し〜くえんす」












電話がなる。
橙子の事務所の電話が鳴るというのは、仕事の話ということである。

今まで談笑していた橙子の笑みはなりを潜め、スッと細まった眼の上に、もう眼鏡は無い。
影が落ちた眼窩のまま、受話器を取って耳元に持っていく。
開いた手にボールペンを踊らせながら、向こうの声の質に口の端を吊り上げる。

「はい、蒼崎です」

声のトーンが一オクターブ低くなった橙子を尻目に、幹也は三度溜息を一つ。

いつものことだ、眼鏡を外して人格のスイッチをする。
こうなると眼鏡をしている時と比べて雰囲気が鋭くなるので、相手が交渉を持ちかける時はいつもこうなのだそうだ。
ついでに言うと雰囲気が恐くなるので、幹也もこればっかりはどうにも慣れない。

仕事となると雑用くらいしかやることが無いのも言わずもがな。
幹也は大きく肩を落として、再び朱肉に判子を押し付ける。
途中でシャチハタにしてしまえばいいのにと思ってしまうが、これも雇い主の意向。

「ん…」

橙子と違った声音がソファから洩れる。
幹也は目を馳せて、唇を開いた。

「起きたんだ」

「…茶」

ソファに転がっていた人影は一度眉間を揉んだ後、頭痛でもあるかのような顔で不機嫌そうに言った。

「飲みかけだけど、いいかな?」

幹也は自らのデスクに置かれた湯飲みを掲げてみせる。
対して人影は複雑な顔をした後、眼を伏せて、くれ、とだけ呟いた。

よくよく見てみると、人影は襟足辺りで切りそろえた髪を少しばかり乱れさせていた。

中世的な端整な顔立ちと、少し斜の眼は鋭い。
柳眉は不機嫌そうにハの字で、桜色の唇は逆にへの字で結ばれている。
雪のように白い肌としっとりとした黒い髪は、何処か意匠の凝らされた日本人形を思い起こさせた。

やはり寒かったのだろう、その人は着物の上に革ジャンという風変わりな格好で居る。
男性か女性かと決めかねるが、細い体と綺麗な声からして、女性だろう。

「はい」

「ん」

きりりとした顔は崩さず、その女性、両儀式は湯のみを受け取った。
少しだけ指先を暖めると、むーっと唸って、くっと一息に流し込んだ。

「寒かった?」

幹也がデスクにつきながら問う。

「…いや」

式は未だに熱の残る湯飲みを両手の平で包み込みつつ、それに応えた。







「はい、はい、…はぁ、はい」

なんだか詰まらないと言わんばかりの声で、電話に応対していく橙子。






「こんにちは、橙子師…と、お話中ですね」

幹也が判子押しの作業に戻ろうかと思ったところで、今度は入り口のドアが開いた。
その鈴のように綺麗な声を鳴らし、入ってきたのは黒髪の女性。
厳格な印象を受ける雰囲気と、すっきりとした目鼻が収まった上品な顔。
背中の中ほどまで伸びた綺麗な黒い髪を優雅に揺らして、その女性は幹也に振り返った。

「相変わらず大変ね、手伝う?」

「ありがとう。でも判子一つしかないから気持ちだけ貰っておくよ、鮮花」

式と同じようにきりっとした容貌を持っているが、この鮮花と呼ばれた女性は少しその意味合いが異なる。
端的に言うなれば、顔つきだけではなく持ち合わせた雰囲気がどことなく雄雄しいのだ。

黒桐鮮花。言うまでもなく幹也の妹である。

「外寒かっただろ、今お茶入れるから」

「いいわよ、喉も渇いてないし」

それよりも仕事しなさい、と言った目で射竦められては流石に幹也も席から立てない。
ストンとソファに腰を落とすと、鮮花は式に視線を向けた。

「…む、なんだよ」

「別に、なんでもないわ」







それからは会話も殆どなく、時計の音と外を走る車の音がBGMだった。
ぺたしぺたしと判子を押し続ける幹也、ソファに落ち着いて無言の式と鮮花。
と、蒼崎橙子だけは先ほどの表情とは打って変わって、身を乗り出して電話に応対している。

ふと、そんな橙子を見て、やっと給料入るかな、なんて思う幹也であった。







「はい、解りました」

電話が終わったと同時に、橙子は眼鏡をかけた。
チェアにどっかりと腰を落として、盛大な深呼吸。

そんな気の抜けた様子に、幹也は無粋とは思ったが声をかけることにした。

「仕事ですか?」

「ええ、それで少し頼みたいんだけど、いいかしら?」

「はい、伝票は「後回しでいいわ、とりあえず交通手段の手配お願い」…?」

聞きなれない響きだ。
交通手段となれば、幹也の車か、タクシー程度だったのだが、今回はなにやら勝手が違うようだ。
首をかしげた鮮花と幹也に苦笑した橙子は、ボールペンで書かれたメモ帳を幹也に飛ばした。

「山を調査…ですか」

「何でも、奇怪な現象が続いているみたい。本来はお門違いなんだけどね。」

ボールペンをこめかみに当てて、背中を背もたれにくっつける橙子。

「お門違いなのに、なんで行くんですか?」

幹也の問いに、橙子は笑って煙草に火をつけた。

「なに、古い知り合いの頼みでね。」

「それで、使用する交通機関は?」

いきなり本題に映る幹也だったが、橙子もこういう切り替えの速さは嫌いではない。
何より彼は情報収集や調査という地道な作業に長けている。
ならば助手としては最適だ。従順だし淹れるコーヒーは美味い。



依頼内容は、どこにでもある有り触れた神秘らしい。
整理してみたところ、その山麓の村人が神隠しに会ったり、幻覚幻聴に見舞われたりするそうだ。
概要を聞く分には、なんでもないただの現象であり、橙子の預かり知るところではない。
だが、依頼者の言では、どうにもキナくさいとのこと。
その事件や現象での被害は増えていても、死傷者や直接的障害を受けたものは一人もいなかった。
だが、現象は良くも悪くも多発しており、なにやら良からぬ予感がするのだそうだ。

橙子自身概要を話された時は鼻白むところだったが、内容を聞いて、彼女も違和感を覚えていた。

神隠しなどの「悪戯」は、大抵外傷はなく、数年後に帰ってきたり、見つけられたときに痴呆になっていたり、
と、精霊妖精の類が気まぐれで起こすものが多い。

されど、今回のケースでは皆、同じ幻覚を見ているようなのだ。

妖精の類がそこまで悪戯することはないし、何より此処数ヶ月で急激に増え始めたとのこと。


―――どうにも、これには魔術的な匂いがする。


下手に荒らされては、此方にも火の粉が掛かりかねない。

故に、調査。場合によっては解決しておかなければ、後々困るのは自分だ。
相手と此方の利害が一致してしまった以上、断るのは道理を外れる。

下手な魔術師が潜り込んで、一般人の魔力を奪いながら潜伏しているか、はたまた厄介な妖精精霊幻獣の類が目覚めてしまったか。

どちらにせよ、この極東の島国を隠れ蓑にする魔術師・蒼崎橙子にとっては都合が悪い。


「新幹線よ」

そういうと、彼女は立ち上がった。

「あの、橙子師、私も同行したいのですが。許可をいただけますでしょうか?」

おずおずと手を上げる鮮花。
彼女にちらと眼をやった後、橙子はしばし考えて頷いた。

「そうね、多視点からの調査は効率的だから。いいわよ」

「あ、橙子さん。あっちのほうはもう雪が積もっていますけど」

不意に届いた幹也の声に、橙子はふむと顎に手をやる。

「スキー場近くの宿を手配してもらっているし、件の山はスキー場だったはずよね?」

「はい」

「だったらスキーしながら調査しましょう、その方が早いし、どの道足じゃ行けないでしょうから」

さて一つ段落、といった調子で息を吐く橙子。

「板は向こうでレンタルね、着る物は各自」

心得たとばかりに幹也も一つ頷く。

「じゃぁ、そうですね。新幹線は七時の奴に乗ってそこからはタクシーで。」

此処で一つ、幹也は口を開けたまま、思い出したように呟いた。

「財布空っぽなんで、そこは「私が払うわ」…鮮花…?」

凛とした横顔に、一瞬呆気に取られる幹也。
そんな幹也に向かって、鮮花はニヤリと笑って、声は出さずとも「一つ貸しね」と言っている。
まぁ、雇い主である橙子に追行できないとなれば弱みを見せてしまうような物で、 それこそ給料が半年もらえなくなる可能性もある。

鮮花も、学校が冬季休業と相成り、寮に落ち着くかどうかで決めかねていたところだ。

なら、新幹線の往復で貸し一つなら安い物だ。
普段いまいちきっかけが見つからずに、出かけるのも少なかったのだから。
丁度良い、財布が潤ったらさんざ振り回してしまえ、と、少なからず思っている鮮花だった。

「…ありがとう、迷惑かけるね」

と、脳内で働かせていた設計も、一瞬で蒸発した。
申し訳なさそうに頭をかきながら苦笑する幹也を見てしまっては。

「い、いいのよ、これくらい…」

ごにょごにょ、と尻すぼみになっていくのも頷ける。

そんな二人を、さも面白くなさそうに見据えるのは、先から蚊帳の外に居た式である。
相変わらずソファに腰掛けて、猫のような目を向けている。

さしもの幹也もそんな式に気づいたか、邪気のない笑顔を式に向けていった。

「式も来る?」

「…ふん」

それでも、不機嫌そうにそっぽを向く式。
眼前まで近づいていた幹也は、返事と取れる式の反応と、ぷいと背けられた横顔を見て残念そうに萎れた。
肩を落として、一つ溜息。
ああ、今日は溜息が良く出るなと実感。

「そうか、ごめんね無理言っちゃって」

「…ふん」

とりあえず、荷物を纏めなければなるまい。
そう思いつつ、事務所を後にしようかと踵を返した時、妙に左腕が重かった。

「ん?」

振り返ってみて、ジャケットの袖を綺麗な白い手が掴んでいる。
その手をもつ式は、ふるふる震えながら、耳まで真っ赤にしてぶちぶちと言葉を漏らした。

「行かない、なんて言ってないだろ…莫迦」

知らず幹也の頬が緩んでしまうのは、多分しょうがない。


















後書き

TYPE−MOON作品のクロス、巷で良くありそうなセッティングで。
バトルの一つでもあればしまるんですがね、流石にアルク一人いると反則勝ち?

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