機動戦艦ナデシコ

Princess Of Darkness

ACT-#08「漆黒の姫君」












クロッカス。

アヤメ科で、白、黄、紫と、綺麗に小ぢんまりと咲く、春の花。
またの名を、花サフランといい、雌しべをしっとりと包み込むような花弁が特徴的である。

花言葉は、「貴方を待っています」

そして、火星北極冠。
太陽の恩寵を十分に受けきれず、
火星で完璧に環境が改善されていないその場所は、凍えるような気温の影響で、雪が吹き荒れている。






そこで、クロッカスと名づけられた一隻の戦艦は、傷ついたナデシコを静かに待っていた…






ナデシコ艦内、ブリッジ。
そこは今、重々しい雰囲気に包まれていた。
緊張と疑問の吐息以外は何も聞こえず、まるでそれのみが支配する空間のようだ。
普段多弁なユリカでさえ、今では言葉を失っている。
原因は、前面のモニターに大きく映し出された一隻の戦艦。
記憶に新しい形だった。
戦艦の名は、クロッカス。
ナデシコが火星に進路を取ろうとしたまさにそのとき、
妨害工作を働いた戦艦でもあり、その後の戦闘でチューリップに飲み込まれた戦艦であった。

それが何故、火星の極冠にいるのだろうか。

轟々と吹き荒れる吹雪の中、クロッカスはその形をほぼ完璧に保っていた。
正直、半信半疑の思いで、ゴートは問うた。


「反応は?」


「今、相手の識別信号を確認しました。記録と…一致しています。」


間をおかずして帰ってきたメグミの答えに、一同は今一度モニターを見やった。
船体が凍りに覆われ、昔からそこにあったかのようなオブジェと化している戦艦。
藍色の船体にこびり付いた氷という檻に閉ざされ、鎮座するそれ。

ナデシコの相転移エンジンと補助エンジンである核パルスエンジンを駆使しても、
火星に至るまで一ヶ月はかかったのだ。
だが、クロッカスは確かにそこにいる。
旧式で、ナデシコほどの速力もない戦艦が、どうしてここにいるのか。
この場のもの達は、その答えを持ち合わせていなかった。


「では、アレは紛れもなく…」


普段無口なフクベもブリッジ下段まで降りて、その様子を伺っている。
足元の作戦用モニターに映し出されたクロッカスのデータを見れば見るほど、
疑う余地がなくなり、自然と言葉が漏れた。


「でも、おかしいです。アレが吸い込まれたのは地球じゃないですか。
それなのに…護衛艦クロッカスはチューリップに吸い込まれたのに…どうして、火星に…」


ユリカがフクベの言葉をさえぎり、多分この場にいる皆が思っているだろうことを述べた。
視線の先にあるクロッカスは、レーダーの有効範囲にナデシコが入っているだろうに、動く様子さえない。


「前にもご説明したように、チューリップは木星トカゲの母船ではなく、
一種のワームホール、あるいはゲートだと考えられる。
だとしたら地球でチューリップに吸い込まれた船が火星にあっても不思議ではないでしょ?」


持ち前の説明を披露しつつ、イネスはクロッカスを見上げる。
隣にいるセレスは、横目でイネスを見た後、一瞬薄く笑った。

イネスは、持論と仮説を織り交ぜて、それを証明するのが得意だ。
しかも、その「説明」のソースである確かな証拠と事実があるために、納得の出来る話になる。
この時点で、チューリップをワームホールだと考えていたのは、イネスだけだろう。
結果的にそれは正しいわけだが、
彼女の場合、論理を専攻しすぎて聞き手に苦痛を与えるほど長時間説明することがあるのが玉に瑕である。
未来、セレスにとっては過去だが、イネスの講義には、
どんなに偉大な学者が参加しても、終わりの時間が近づくと聞いているものはいなかったらしい。
研究の奇才であり、説明の鬼才でもあるイネスの理論や研究には素晴らしい物があるが、
イネスは説明をしだすと半日はとまらないのだ。
それは、無駄とは一概に言えないが、焦点となっていること以外の説明も省かないためである。
まさに、一から十…を超えて、一から百までだ。


「じゃぁ、地球のチューリップから出現している木星トカゲは、この火星から送り込まれている?」


イネスの仮説に、ゴートが問うた。
しかし、切り替えされたイネスは返答に困った。
木星と名の付くだけあって、それらは火星の向こうからやってきた。
一概に「火星だ」といって断定することは出来ない。
憶測やカンだけで結論を急いでしまうことは科学者、数学者、考古学者、端的に言えば学者にとっては愚考である。
確かな根拠、そして、事実と照らし合わせた仮説を立てるなら、それはそれでいいだろう。
仮説は仮説であり、本当にありえることとは限らないためだ。
よく仮説を結論と違えるものがいるが、それは根本からしておかしいことである。
元々はカンや憶測でものを述べることが嫌いで、自分の理論と実証でねじ伏せることを信条とするイネスだ。
意思に反することはしない。
だが、そのイネスでさえ、今の状態で結論を出すことは躊躇われた。
チューリップの中に入ったわけではないし、実際にワープした記憶もない。
彼女はただ、チューリップの中に入るであろう兵器の質量と体積の関係から述べているだけであって、
間違ったことは言っていない。
要するに実体験と確証が皆無であるからして断言できないだけだ。
もし、彼女にそれがあったら喜び勇んで「説明」を始めることだろう。

イネスが返答に迷い、不自然にあいた間。
丁度全員の息が静かになったところでミナトが切り出した。


「そうとは限らないんじゃない?だって同じチューリップに吸い込まれたもう一隻の護衛艦…えぇと、何だっけ?」


「パンジー。」


フクベが付け足す。


「その姿がないじゃない、出口がいろいろじゃ使えないよ。」


「「おぉぉ…。」」


ミナトの言ったことに一同は感嘆のため息をついた。
思い返せばまさにそのとおりである。

ミナトの言葉を聞いた後、ユリカがもう一度クロッカスを見上げる。
もしかしたら、未だ中には生存者がいるかもしれない。
船の動力が死んで、中で救助を待っているかもしれないのだ。


「ヒナギクを降下させます。」


「その必要はないでしょう。我々には目的がある。」


自分の提案を一蹴したプロスに若干の逡巡を覚えながら、ユリカは表情を暗くする。
プロスの意見には間違いはないが、ユリカは目の前の現実を見定めていた。


「しかし・・・生存者がいる可能性もあります。提督。」


「ネルガルの方針には従おう。」


指示を仰ぐユリカ。
フクベは、結局はプロスの意見に賛同した。
望み薄なのは分かっているのだろう。
綺麗に割り切れることは、軍人として培われた強さなのか、それとも、ただ感情が朽ちていってしまっただけなのか。
しかし、それを年老いた顔の険しい表情から読み取ることは出来なかった。


年上であり、尊敬する人物の判断に納得と反駁を持ち合わせ、
ユリカが口を開きかけた次の瞬間、ブリッジ上段のエアロックドアが開いた。


「あ、あの!俺、聞きたいことがあるんですけど。」


早足で入ってきたのは、ジャージ姿のアキトだった。
急いだ様子で、アキトは一直線にある人物へ向かう。


「何をやっている。今頃ノコノコと。」


とがめる口調のゴートに謝る事もせず、一切を無視してアキトはフクベの元へと向かった。
アキトが眼前まで歩み出たときでも、フクベはいつもと変わらない表情をしていた。
いや、表情だけは。


「提督、第一次火星会戦の指揮とっていたって…」


「まーまーまー、昔話はまた今度にでも。」


かすかに震える声に、プロスは気づいてやれなかった。
いつもと違う雰囲気をまとう青年の…激情を。
アキトはうつむいたまま、分かりきった答えを待っていた。


「フクベ提督があの会戦の指揮してたなんて誰でも知ってるわ、おかしいわよアキト。」


ユリカがいう。
普段とは変わったアキトの言葉の雰囲気に違和感を覚えながら。


「そうさ、知ってる。」


アキトから帰ってきたのは、意外な答えだった。
それを尋ねたのに。
何故、答えを知っているのに尋ねたのか。
その矛盾に、一同は首をかしげる。

だが、セレスだけは…いたたまれない顔、そして愁いを帯びた眼でアキトを見ていた。
この頃の感情は、良く知っていた。
今まで生きてきた中で人を殺したいと本気で思ったことは、これを含め、二度しかない。
火星会戦でチューリップの侵入角度を曲げたリアトリスの特攻を行わせたフクベに対する怒り。

北辰や草壁を筆頭とした火星の後継者達が、ユリカと『自分』を奪ったことに対する怒りと、
何も出来なかった自分に対する怒り。
殺意は、こちらのほうが強いかもしれないが。

未来のほうが、数倍も、数百倍も悲しみも、苦しみも、痛みもある。
しかし、無力感と憤りは勝るとも劣らない。
それに、フクベも同じ事を思っていたのだろう。
自分の立場というものに関係なく、火星に落ちるチューリップをただ手をこまねいて見送ることは出来なかったのだ。
身の保身より、チューリップを火星に落とすまいとして、力至らなかった無力さ。
多人数を自分の判断で犠牲にしてしまった責任への重圧。
今のセレスには、それが分かる。
主観から客観に切り替えることが出来たおかげで、今はフクベの苦しみを理解できる。


――――何も出来ずに、ただ大切な人が奪われ、犠牲になっていく痛みを、知っているから…


今まで、セレスは出来るだけアキトにそのことを示唆してきたつもりだ。
過去と違い、自分という存在の意味があるのなら、踏みとどまるのではないか…という甘い期待を抱いていた。
しかし、それが愚かな自分の自惚れだと気づくまで、間はなかった。


「緒戦でチューリップを撃破した英雄…、でも、そのとき、火星のコロニーが一つ消えた・・・・・・・・!!!」


ぞくっ…

セレスの背筋に、身の毛の弥立つビリビリとした感覚が走り抜けた。
アキトの今にも泣き出しそうな声。
それでいて、憎悪と激昂を含んだ声。

過去セレスは…、いや、「Prince Of Darkness」は、五感を失っていた。
それでも、外部情報を得ようと、復讐を続けようと、「Prince Of Darkness」は五感の代わりになるものを探した。
その過程で手に入れた物の中でも、特に卓抜していたのは『気配』を読み取る、という技能だった。
第六感…なのか、狭い周囲の中で人がどこにいるか、どの様な感情を抱いているかが漠然とでもわかってしまう。
セレスの五感が回復したことは、今までウェイトをかけてきたセンサーの負荷を取り去ったようなものだ。
「Prince Of Darkness」の時、薄々と感じ取れた北辰の気配。
それは北辰の異様な気配が強力すぎたためであるが、
ワラにも縋る様に「Prince Of Darkness」の感覚は研ぎ澄まされた。
そして、その感覚は今セレスの中で警鐘のように鳴り響いていた。

そのセンサーが、アキトの気配、雰囲気が豹変したことを感知していた。

荒く、肩で息をするアキトは…ゆっくりと顔を上げる。


「…はぁ…!はぁぁぁ…!」










―――助けられなくて…


―――皆、死んだ。


「うぅあぁぁああああああああぁぁあぁぁぁあぁ!!!」


―――それは誰のせいだ?


―――そうだ。


「ぁああああああああああああああああ!!!」


―――目の前の男のせいだ。


―――こいつのせいで、アイちゃんも…!!


「アンタがぁっ!アンタがっ!アンタがっ!アンタがぁぁあああああああああぁぁぁぁぁっ!」


アキトはありったけの叫び声を吐き出した。
今まで積もり積もっていた恨怒(こんど)を。

唐突に、アキトはフクベの軍服の襟を引きちぎらんばかりに握り締め、右拳を振り上げた。
今のアキトには目の前にいる男しか見えなかった。


―――殴ってやる、この無表情な顔を…!


憤慨する理由は、フクベの表情でもあった。
火星の人たちを殺した。その事実を突きつけられても眉一つ動かさない面持ち。
それに向かい、憎しみと、恨みと、怒りを全て込め、アキトは右拳を振り下ろした。

瞬間、アキトの視界に桃色の影が移りこんだ。
だが、拳を止めることはかなわず。










ゴッ!













鈍い音がした。



その場にいた全員が眼を見開いている。
アキトを取り押さえようと駆け出したゴートでさえ、いつの間にか沈黙と共に動きを失っていた。
アキトも例外ではない。
自分のしたことに信じられないような顔で、フクベの襟への束縛をとく。
誰もが恐々とした顔で、殴り飛ばされたセレスを見つめていた。

セレスが、アキトが腕を振り上げる前に駆け出し、今振り下ろされる瞬間に二人の間に割り込んだのだ。
バンッ、と、華奢な体がブリッジに叩きつけられ、何度かバウンドした。
後に残るのは、無防備に横たわるセレスのしなやかな肢体。


「…セレス…さん…何で…」


アキトは、わななく唇を使い、何とか言葉を投げかけた。
麗しい光を湛え、舞った桃色の髪が、全て動かなくなる。
その場は刹那に水を浴びせかけられたように沈黙と、驚愕に包まれた。

セレスの指がピクリと震えた。

だが、それに気づいたものは無かった。

緩慢に、セレスはうつぶせの状態から座りなおる。
数瞬前までは綺麗に整っていた頭髪も、今では乱れ、何処か情事を済ませた後の妖しさを感じさた。
だが、同じくゆっくりと開いた瞳と、表情には、何の感情も浮かんではいなかった。
無表情な人形のような面持ち。
比喩すれば、一番に浮かび上がるのはそれであった。

大の男が拳を振るった時、どれほどの力が生まれるか、殆どのものが知っている。
それなのに、セレスには痛みに歪む表情さえない。
セレスの口端から、つつっと血のラインが曳かれた。
頬に当たった拳のせいで口の中が切れたのだろう。
白い肌に伝う紅い血のコントラスト。

…ポタリ。

作戦立案用の大画面モニターに、セレスの血の雫が一滴、零れ落ちた。
それを、セレスは指で潰し、軌跡を描いていく。

…ポタリ。

また、血が落ちた。
今度は、セレスの手の甲に。
血液の含む鉄の味さえ"感じられない"のか、今のセレスには苦渋の表情はなく、
それが自分のものである、それが血であるということさえ分からない様子で。
無邪気な仕草だった。まるで、幼い子供のような。

誰も口を開かない。
いや、開けない。
普段、賢明で冷静なセレスが、このような挙動をするなどと。
信じられなかった。
一種、異様な雰囲気が、ブリッジに渦巻く。


やがて、セレスは手のひらで口をぬぐった。
手にベタリと残ったそれが、自分のものであると、未だに認識していないのか。
セレスは血をそのままに、顔に手をやった。
同時に、無意識なのだろう、自らの頬に塗りつけていた。
古来アフリカ大陸の先住民らしい模様ではない。
むしろそんなものより稚拙で、手の形がはっきりと作られている。


虚ろな金色の瞳に、その紅は映っているのだろうか。


「セレスさん…」


ビクッ…

メグミが、若干の戸惑いと、多大な畏れを含んだ眼で、セレスの表情を垣間見た。
赤と白が生み出す、歪んだコントラスト。
感情の消え去った金色の瞳と、赤く彩られた幾何学的文様。

刹那、メグミは自分の背筋が粟立つのを感じた。

そんなメグミの内心を知ってかしらずか、
セレスは手の平を血で塗し、「コレは何だ」といわんばかりに無表情で手を差し出してくる。


「その…血…」


メグミがようやく搾り出したか弱い声を汲み取ったのか。
セレスは大きく眼を見開いた。


「…ち?」


その声は、いつもの声セレスの物とは、トーンが違った。
高めのハスキーボイスだった声ではなく、今は、変声期を終えていない子供の声、そのもの。


「…コレ…血?」


まるで縋りつくような眼で、セレスは問うた。
違和感を誘う声にも、誰も答えようとしない。
少女じみた声が、段々と震えをはらんでいく。


「血…」


ゆっくりと、自分の頭を抱え込むようにして、セレスは頭に手をやった。






そして






頭を握りつぶさないかと思われるほどに…















「イヤァアアァァァァァアアァァァアアアアアアァァァァ!!!!!」



















セレスの物とは思えない絶叫が、ブリッジに木霊した…
白く反り返った喉から、それほど大きな声が出るものか。艦全体に響き渡るかとも思える震え。

途端に、ブリッジの面々は暗闇に放り込まれたかの様な錯覚に陥った。

体中を這い回る本能的な寒気、いや、それをも凌ぐ冷気。
周囲に人がいるのに、孤立してしまったような孤独。
眼を失ったかの如く、盲目の暗闇。

そして、絶対的な恐怖。

じわじわと侵食される精神に語りかけてくる戦慄の声。


セレスの眼には涙がたまり、大きく開かれた眼は虚空を見据えていた。
恐れに満ちた顔、この世の全てを拒絶するかの様な慟哭、身の毛の弥立つ悲愴な叫び。
セレスであって、セレスではない「何か」が、頭角を現してきていた。
内面からせり上がる様にして浮き上がるもう一人の「何か」。
恐怖に震え、ただ全てを拒む「何か」は叫んでいた。
悲鳴という名の咆哮にただ圧倒されて、萎縮し腰の引けていた女性達の中には涙を浮かべるものさえいる。


しばらくして。
長く続いた悲鳴は、セレスが倒れるのと同時に消え入った。









セレスが倒れてから、少々の時間が過ぎた。
未だに寒気が抜けきらない。
だが、若干のしこりは残っていたものの、解凍されゆく氷の如くブリッジは弛緩して行った。
気圧された一同もそれと等しく、何の前触れもなく緊迫していた状態が、少しずついつもの様に戻っていった。
誰ともつかない、詰めていた息を吐き出す挙動に、安堵の溜息さえ聞こえた。
何処かぎこちなさの残滓が漂うブリッジに、医療班と見て取れる二人が担架を持って駆け込んできた。
二人は、慣れた手つきで担架にセレスを仰向けで乗せると、ブリッジにいる一同に会釈をする。



「一体…彼女は…」


セレスが担架で運ばれていった。
取り残されたように、その姿を見つめる中の一人、ジュンは困惑交じりの声を漏らしていた。

彼女は、セレス・タイトはいつでも冷静で、聡明だった。
自分が地球防衛ラインでナデシコを迎え撃つ際にも、彼女は信じられない活躍をして、自分と、ナデシコを助けた。
大人びた雰囲気からは想像出来ないほど、華奢な体、細い腕、白い肌。
それが、こんなにも脆い物だったとは。
一時の暴力で、見えなくなってしまうものだとは。

頬に当たった拳のリアルな音が…耳から離れなかった。


「無茶するぜ…アイツもよ…」


リョーコがセレスに向けての言葉を述べた。
沈黙が…痛かったから。
罪悪感にも似た感情が、その場にいた全員の心に蔓延る。

その罪悪感を人一倍感じているのは、他でもない、アキトだった。

刹那に感じたやわらかい肌の暖かさ、それが、火星に下りたときに向けられたセレスの暖かな笑みに重なる。

――――それがなくなってしまったら。

瞬間、アキトの体を身も凍る戦慄が蹂躙した。



同じ感情を、ルリも抱いているのかもしれない。
目の前で起きた事実に、金色の瞳は見開かれ、小さい体は驚愕に震えている。

そんなルリの様子を見て、ミナトは気まずさを隠せなかった。

セレスと部屋を同室にしてから、ルリは驚くほど変化を見せていた。
乗艦当初、初顔合わせのとき、ミナトはルリのような子供が乗艦すると見聞して、驚嘆した。
同時に、大人ばかりの戦艦の中で、母親の代わりにでもなれたら。
そう考えてはいた。
しかし、佐世保でのナデシコ就航時、セレスはやってきた。
黒に包まれた桃色の髪…。
誰もが奇異な視線で見つめる中、ルリは同居の承諾を名乗り出た。

そこからである。

訝しげな視線を送られていたセレスの本当の姿は、バイザーを取り去ると容姿端麗である…ということだけではない。
何もかも見通すような愁いを帯びた切れ長の眼。
厳しさと、優しさを兼ね備えた、柔和な声。
たとえ罪人であっても、抱擁してくれるような包容力。

そんな彼女に、ルリは懐いていった。

同じ金色の瞳、似通った境遇も起因しているのか。
年相応の笑顔を時たま見ることが出来るようになって、ミナトは小さな幸せすら感じていた。

大切なもの。

それが、彼女にも出来たのだと思って。




だが。

彼女が大切に思っているセレスは、今は医務室にいる。
狂ったような悲鳴を上げて、倒れたのだ。
原因は、アキトとフクベの間に割って入った為であるから、二人に非はない。
そう、頭ではわかっているミナトでさえも、行き場のない憤りを感じていた。










・・・・ポタ。










ブリッジの下段、作戦立案用の大画面モニターに透明な雫が一滴、落ちた。
操舵席から下段の、いや、ルリの様子を終始伺っていたミナトははっとして顔を上げる。












「・・・」


金色の瞳を持つ、人形のような少女。
ルリが、泣いていた。

・・・眉一つ動かさずに。

瞬間、ミナトは震えた。
今まで、泣いたことがないルリが泣いている。
セレスのために。


「・・・」


ルリは、ブリッジ上段に向かって駆け上がった。
担架で運ばれていったセレスの元へ向かうために。
そして、ルリはブリッジを出る直前、立ち止まり、静かに振り返った。
涙でくしゃくしゃになった凄惨な表情を、アキトに向けて。

その少女とは思えない形相に、一同は息を呑んだ。

気後れして立ちすくむアキトも、自分のしたことはわかっている。
わなわなと震えていたアキトの手は行き場を失い、握り締められた。


「セレスさんに何かあったら…」


無感情なルリの声。
そう、いつもと変わりない。
艦内放送をするときと変わりない、単調な声。
コレまでは。


「私…一生許しません。」


その声が、その場にいた全員の心を大きく揺さぶった。
確かな恨みと心にわきあがる罵声を必死に押さえつけて、ルリは吐き捨てた。
それが彼女に出来るアキトに対する精一杯の侮蔑であり、
そうしなければ、自分がその場で崩れ落ちてしまいそうで…怖かったから。
最後にアキトを睨みつけ、ルリは足早にブリッジから去った。
艦内オペレーターが一人欠けたブリッジでは、誰も口を開くことが出来なかった。






それからしばらくして、ゴートは思い出したようにアキトを拘束した。
最早抵抗する気も起きなくなっていたのか、アキトはゴートのなすがままに、イスに縛られ、
口にはハンカチをかまされた。
アキトの罵声と怒声が漏れるのを防ぐためだったが、アキトはだんまりだった。
呆然とした様子で、ルリとセレスが出て行ったエアロックを見つめていた。
拳を握り締めたときに滲み出てしまった血など忘れてしまったかのように。







医務室。
いつもならセレスが白衣を着てデスクについているのだが、今日は違った。
漂う消毒液の匂いや、雑然と積み上げられたカルテ。
形だけは、いつもと同じ。
そこに向かえば、セレスが苦笑交じりに「どうした?」とでも聞いてきそうな…

しかし、彼女は今、清潔に整えられたベッドの上に横たわっていた。
生活班によって洗濯乾燥、アイロンまでかけられたシーツは、今では少々の皺が寄っている。

その中で、担架から運び込まれたセレスを診察するのは、イネスだった。
アキトに殴打された頬の傷害は打撲にとどまっており、骨には異常がない。
口内から出血した血はなぜか止まっていて、今は安らかな寝顔を呈していた。


(でも、あんな二面性があるなんて……幼少の時に何かあったのかしら…?)


イネスはセレスのいるベッドの傍らに立ち、美しい顔を無防備にさらす彼女を見て思いをめぐらせた。

フクベとアキトの間に入り、アキトの打撃を受けて血を『認識』すると、悲鳴を上げたセレス。
例え、暴力に抵抗がなかったとしても彼女はパイロットだ。
戦闘に加わって自身の機体がダメージを負う事だってある。
それは、痛みに対する抵抗力があることを示唆していた。
それに、セレスとは短い期間だったが接してきて、血で発狂するような人間ではないし、
暴力に対しても達観できるほどの強さがあることはわかっている。
証拠としては、医務室で勤務しているときの手当てだろう。

イネスのたどり着いた結果、セレスは暴力と出血の二つが合わさったことで、
過去に恐怖を与えられた体験を思い出したのだろうと想像した。
もっとも、過去に与えられた体験という物が何であるかはわからないし、
そもそも、そんな体験があったと言うことも、断定は出来ない状況ではあるのだが。
しかし、普段沈着冷静に振舞っている彼女が、あられもない姿で悲鳴を上げるなどというのは信じがたく、
加えて、倒れてからの行動、仕草はあまりにも幼稚だった。
行き着いた答えの難解さに、イネスは苦笑し、嘆息する。









解離性同一障害…、もしくは心的外傷後ストレス障害などの精神疾病。









前者は一人の人に、明瞭に区別される2つ以上の同一性、または人格状態が存在する病態。

先の断っておくが、精神分裂病という名から改められた統合失調症と二重人格とは、全くの別物である。
schizophrenia(=ギリシャ語の精神・分裂)に由来するためだろうが、
そこまで知識の深いものは、そういないであろう。
しかし、今では殆ど多重人格や二重人格等といわれず、
解離性同一障害(以下DID【Dissociative Identity Disorder】)と呼称されていて、
一般に5〜12歳の時期の虐待により、発症するといわれている。
そして、解離性症状のなかに診断名ではないが、
解離性フラッシュバックというものが存在するのは漠然としかわからない者もいると思う。
外傷体験とよく似た体験、感覚刺激が引き金となって、そのときの体験を再体験しているような錯覚に陥る。
その人間は連鎖的な、恐怖、羞恥、怒りなどを受け、
動悸、痛み、過呼吸、咳き込みなど身体の状態を変化させる。
錯乱や情動麻痺など至って本能的な反応を引き起こす症状。

後者は、PTSD【Post-traumatic Stress Disorder】と呼ばれる。
それは外傷的体験…その人の対処能力を超えた圧倒的な体験で、
当人の心に多大な衝撃を与え、その心の働きに永続的、不可逆的な影響を起こすような状態を意味する。
そのような圧倒的な衝撃は、普通の記憶とは違って単に心理的影響を残すだけではなく、
脳に「外傷記憶」と呼ばれるものを形成し、脳の生理学的な変化を引きおこす。
外傷記憶は時がたっても薄れることがなく、その人が意識するしないにかかわらず、
一生その人の心と行動を直接間接的に束縛する。
外傷記憶を形成するような体験とは、戦争、家庭内の暴力、性的虐待、産業事故、自然災害、犯罪、交通事故など、
その人自身や、身近な人の生命と身体に脅威となるような出来事などがある。
PTSDでは、その種の出来事に対して、無力感、戦慄などの強い感情的反応を伴い、
長い年月を経た後にも、このようなストレスに対応するような特徴的な症状が見られる。
例を挙げると、患者はその外傷的体験を反復的、侵入的にフラッシュバックしたり、
外傷的体験が再演される悪夢を見たり、実際にその出来事を今現在体験しているかのように行動する症状。

それらが、セレスに見られた。
まだまだ断定は出来ないが、検査をする必要は十分にあった。
彼女が女性であり、DID、PTSDの原因の中の一つを照合する・・・と。
イネスは怪訝そうにセレスの寝顔を覗き込み、やがて意を決したようにセレスの服に手をかけた。









ルリは息を切らしていた。
いつもなら柄にもなく廊下を疾走する自分を無感情な眼で見据えていたのかもしれないが、
今はそんな悠長なことをやっていられる状況ではなかった。

早く、早く医務室へ。

自身を満たす焦燥、そして心臓の鼓動と比例するように、ルリの足は少しずつ速くなっていった。
息を切らしながらかけこんだ医務室の中には、白衣のイネスがいた。
といっても、後姿が見えるだけで彼女は今、ベッドを正面にして真剣な眼を左右に走らせていた。

その視線の先には、セレスがいるのだろう。

ルリはセレスの体を隠すカーテンにもどかしさを覚え、息を整えながらイネスの元へ向かった。


「イネスさん。」


「ああ、やっときたわね。」


いつもなら皮肉にも思える口調で答えるイネスだったが、ルリは不思議と不快感を持たなかった。
それよりも、カーテンの奥がどうなっているのかが気がかりだったからだ。


「セレスさんは…どうなんですか?」


震える声で尋ねるルリ。
しかし、イネスはそんな彼女の様子に小さな笑みを漏らした。


「大丈夫よ。骨に傷はないし・・・・・、痣は出来てるけどね。」


「・・・。」


信頼できる者としての見解を聞き、ルリはほっと胸をなでおろす。
ブリッジではいきなりのことに動転してしまっていたが、ただの打撲だ、心配することはない。
そう、自分に言い聞かせるルリとは対照的に、イネスは険しい表情だった。

しばらく置いて、イネスの手によってカーテンが引き放たれ、ルリはようやくセレスと対面することが出来た。

着ているのは、病院で多用される検査時の服だった。
胸の双丘の突起が、そのままの形で検査服に浮き出ている。
そして、ブリッジで少量の血を流した口の血痕は綺麗にふき取られていて、
まるで何事もなかったような寝顔を浮かべるセレス。
…痣が出来ている、との事で、セレスの顔には湿布のようなものが張られているが。


「寝ている…わけじゃないですよね?」


「ええ、気絶中よ。」


仕事を終えた手をポケットに差し込み、二人を見据えるイネスは…迷っていた。


「でも…、彼女。相当の患者ね」


「どういうことですか?」


不思議そうに聞き返すルリに視線を戻し、イネスは曖昧な笑みを浮かべてみせた。









「何やってんだよ…お前らしくもない。」


ブリッジ下段。
ウリバタケが、ツナギ姿でアキトに語りかけた。
ブリッジでの一悶着の後、シートに縛られたアキトは半分茫然自失の調子で、小さく震えていた。
その彼の相談…というよりは説教に近いが、役まわりを託されたのがウリバタケだった。
アキトとウリバタケは面識が深く、パイロットと整備士という気心の知れた中であるからだろうが。
しかし、ウリバタケが何を言おうと、アキトは反論は愚か肯定すらしない。
聞こえているのか、と聞くと怪しいが、アキトは自身を責め立てているのだろう。
シートに縛り付けたのが無意味とも思えるほど、アキトは大人しかった。
年配のウリバタケだから、もちろんこんな状態になったこともある。
その対処法も、一番知っている。

…こうなったら、一切合切触れない。

そして、原因となった人物で話を収拾させる。
第三者が口を挟むべき問題ではないからだ。
と、わかっていても口を出してしまうのは気質故か。


「いかなる理由があろうと、艦隊司令たる提督に乗員が手を上げるなんて、許されない!
ユリカ…いや、艦長、厳重な罰を!」


落ち着いて言葉を作るウリバタケとは対照的に、
ブリッジ上段の艦長席にいるユリカを中心にして、ジュンは珍しく語気を荒げていた。
軍という組織の中での階級イコール絶対の考えであろうが、それ以外の感も含まれているのに当人は気づいていない。
それに応じるユリカも、先ほどの光景を思い出してか、表情を曇らせる。


「ジュン君…、でも、アキトに押しおきなんて・・・、うふふ…何がいいかなァ・・・。」


だが、罰と聞いてユリカの脳裏には多少アブノーマルな考えが浮かんだ。
想像の翼をはためかせる彼女は人差し指を顎に当て、考えあぐねるそぶりを見せる。
すっかり妄想の世界に入ってしまったユリカを抑制すべく、プロスが口を挟んだ。


「まぁ、それもありましょうが、まずはこっちをご覧ください。」


そういって大型ウィンドウに火星の縮尺を表示する。
木星蜥蜴襲撃以前のデータだが、それなりに信憑性はある。
ナデシコのグラビティブラストでも山を吹き飛ばすには出力がいるし、
地面にクレーターを穿つにしても同様であるからだ。


「ナデシコが向かう北極冠、この氷原にはネルガルの研究所がありますので、
運がよければ相転移エンジンのスペアが…。」


プロスの話の焦点は過去火星に存在したネルガル所有の研究所。
そこでは相転移エンジンからナデシコの詳細まで幅広く手がけてあったため、
テストタイプ、あるいはナデシコの搭載しているものと同格の相転移エンジンや修理に必要な部品があるかもしれない。
その一筋の希望の光にすがらねば、この状況を打破するのは無理だ。
だからこそ、暫定的ではあるが紆余曲折があっても生存できる確率の高い方向を取る必要があった。


「提督。」


すっかり「機動戦艦ナデシコ艦長ミスマル・ユリカ」の顔になったユリカはフクベの指示を仰いだ。


「エステバリスで先行偵察」


フクベ・ジンは静かに、その重々しい口を開いた。
発せられた言葉は、いつものような響きを伴っていた。
表情さえも、いつものような荘厳さを湛えて。

彼の気丈さは誰が見ても賞賛に値するだろう。
或いは、それは残酷だったのかもしれない。
揺るがない強さが内包する弱さ。
それに気づくものはなく。
彫刻のように変わらない表情の中に隠された朽ちた感情は、何を思うのだろうか…















あとがき



ども。
手直しとか手伝っていただいたメフィスト氏、この場を借りて感謝!
というか、なぜに音信不通なんですか>メフィ氏
投稿を遅らせるのもアレなんでスミマセンが送っちゃいました。
ああ、寂しい(ぉ
連絡取れたら座談会のほう開きますので(爆

By しょうへい






3、2、1、どんがらがっしゃ〜ん。

<総作者、しょうへいの言い訳>〜!

おーぅい皆ぁ〜。言い訳の時間が始まるよ〜!
ニゲロニゲロ、ドアヲアケロ〜。

閑話休題。

ハイッ、機動戦艦ナデシコPOD8話です。
今回は私しょうへいがメインに書かせていただきました!
まぁ、話のキー、なおかつターニングポイントともなりえる話ですからね〜。
自分で書きたかった…っちゅーのは身勝手ですが。
今回は挑戦に次ぐ挑戦で結構がんばってみましたよ。
0話のシリアスを和ませようと、皆様と協力して作り上げた雰囲気の中、酸味を利かせる役割をさせていただきました。
ヤるときはヤるって、感じですかね。
対比の意味も込めて、このお話では【日常】と【その時】の描写をしっつこく入れてますが。

物語の中で大きなポイントとなる今回の話。
プロットが出来上がったのは大分前の話で、その際に私が皆様に「これは自分でやらせてください」とお願いしました。
前々の話からの伏線(笑)と辛味を入れつつ、露骨な表現を交えて説明を入れてみましたが。

生臭ぇ(汗

間違いとか多そうで怖い。
というか、DIDとかPTSD難しいッス。
まだ完璧に把握し切れていないので多そう…間違いが。
専門家の方々から見れば「なんで?」とかいうところも多そうで。
…人と脳の事はまだ全て解明されていないとか言われてますしね。
都合のいい症状かもしれませんが、これはこれで意味のあるものです…多分!
最初の方から段々と謎かけをしているわけですが、それもすこーしずつとかれています。
これからのお話にも是非是非眼を離さないで頂きたいものです。

あと、かなり無理やりな文章なんで不都合があるかもしれませんが、そのときは生暖かい眼で見てください。
加えて、DID、PTSDってなんなのさ?
っつー質問には答えません!
あしからず!
だって面倒なんだもん!(それが本音かよ
詳しく聞きたい方は最寄の精神科の医師をお尋ねくださいなー。

書くのもそうですけど、推敲には気を配らねば…
では、次回のACT-#09でまたお会いしませう。

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