―――もう二度と会うことなど、ないだろう。


そう思っていた自分にとって、再会とは奇跡の範疇を超えていた。
これからの行く年月は切なさと悲しさで身を切るはずだったのに、悠久のときを過ぎるだけの悲痛な日々は、眼の前の現実に打ち壊された。

先ず気持ちに上がったのは、信じられないといったものだった。
されど、その感情も刹那で終わり、今度は驚き、そして…歓喜。

内心込み上げて来る熱い感情をねじ伏せられるはずも無く、胸が詰まる。目頭が痛く、鼻の奥は焼けるよう。

震える口を開こうとしても、嗚咽が洩れそうで憚られる。
それでも、ぼうっと突っ立っているだけでは何も始まらない。
何かを言わなければならないのに、声はきっと濡れそぼっている。そんな無様な姿は見せたくは無かった。

周りの本たちも静まり返り、邪な気を撒き散らしていたときとは見違えるほど。
暗い図書館。明かりはどこから差し込んでいるかさえわからない。
誰そ彼時の朱色すらないのか、既に月の色である。
先まで耳を聾するほどに騒いでいた夜鷹ウィップアーウィルも静寂に落ちたらしい。


「ラテン語版が大学に保管されているのは知っていたけどさ。本物オリジナルが保管されてるとは流石に聞いてなかったぞ」


だが、眼の前の男は飄々と。

切なそうで、泣き出しそうな顔をして、そう言った。











それが、二度目の邂逅さいかいだった。



















DEUS MACHINA DEMONBANE

Epilogue 〜終章〜





















空前絶後の大黄金時代にして大暗黒時代であり大混乱時代と、毎日が怒涛の如く過ぎていく街。
ニューイングランド、マサチューセッツ州、アーカム。
人口が二万にも満たなかったのは大層昔の話で、今や国の様々な都市の群を抜いて巨大な街と相成っている。
夜になれば毒々しいネオンにまみれ、空高い星さえ見失う、伝説に満ちた街。
街のいたるところにはバベルの塔もかくやといわんばかりのビルディングが林立し、一方で眼を転がせば泥で煤けた煉瓦建。
先進を象徴する鉄筋コンクリートとみすぼらしく欠けた建物は、貧富の差と同様か。
なんともちぐはぐで対照的なそれらのなりが密集して、この騒がしい街を象る。

それというのも、一人の成金に起因する。

過去、その成金となるべき男は平凡な男だったらしいが、そんなことは嘘に違いない。
実際、その男は驚異的な、あるいは未来予知とも思える眼力を用いて数々の事業を成功に導き、それこそ大国を凌駕する程の財を築き上げた。
覇道はどう鋼造こうぞう、それがその男の名である。
広がる単調な自然が名物、といった片田舎だったアーカムシティに、彼は一大発展をもたらした。
当時の首都、都市圏など比較にならないほどの発展は、新たなゴールド・ラッシュを生み出した。
それ故、いやがうえにもこのアーカムシティは現在、彼の築き上げた財閥に庇護されて、けばけばしい栄華を謳っているというわけだ。






マンションから覗く向かいの家の窓には洗濯物がひるがえり、大通りに面したパン屋の主人の大声は今日もシティの喧騒という名のBGMの形成要因になっている。
見上げれば突き抜けるような青空、雲ひとつ無い快晴。
悠々と空を踊る真っ白な翼はなくなることは無く、彼らが見下ろす世界はここの所いたって平常に騒がしい。

そんな朝。

寝癖が酷く、皺くちゃのワイシャツを緩くタイでとめ、黒のインナーとスラックスを着た男は嘆息した。

彼の容貌は若々しく、顔立ちは中々整っている。
衣服の上からでもわかるしっかりした体つきだが、どうやら着やせする性質があるようで、捲れ上がったシャツの隙間以外から無駄の無い筋肉をうかがい知ることは難しい。
些かくたびれた雰囲気が拭えない所以は、皺だらけのシャツのせいだけではなく疲労の溜まった表情にあるのかもしれない。
けれども、力強い眉は疲れとは関係なく気難しそうにひずめられていた。

―――彼、大十字九朗は己の机を一瞥して、再び溜息を吐いた。

机上は明らかに汚い。片づけが苦手なのはわかっていたが此処最近の忙しさも含め仕方の無いことだといってもだ。
とりあえず奥に押しやって放射状にスペースをとる。
その際色々落ちたが、後でどうにかしようと決めて、机上のホルスターの中身を二つ置いた。

ゴトリと重い音を立てて机上に収まるのは二挺の銃。

片方は、黒光りする銃身に灼熱の赤が狂暴に走り、紋様とも取れる印を描いている自動拳銃オートマチック
もう片方は、黒と対極を成す鮮烈な銀が燦然と輝き、冷たい氷を思わせる回転式銃リボルバー
形状は、双方規格外に大きく、ぞんざいに言えばオートマチックの方は前方下部、つまりはトリガーガードの前にマガジンがあり、リボルバーの方はシリンダーの下方が撃鉄に叩かれる仕組みだ。

九朗は徐にオートマチックのカートリッジを取り出し、机の引き出しから取り出した弾を詰める。
リボルバーの方も、シリンダーを横にずらして弾を詰めた。

なぜ気持ちのよい朝にこんな物騒なことをしているのかというと、原因は一昨日にある。

赤貧生活真っ最中の彼にとって、実生活は思いのほか厳しい。
そのため、街の何でも屋さんである探偵と日雇いの仕事で生活をしている。
しかし、探偵家業はそう好調とは言えず、二週間前の依頼も「夫の不倫相手を調べろ」なんて内容だった。
コナン・ドイルや江戸川乱歩の世界のように推理が入り乱れるスリルとサスペンスな世界を覗けるわけでもない。
結局夫の身辺調査、もとい尾行で愛人宅へいそいそと足を運ぶ様子を感光体に焼き付けて、終了。
報酬はそれなりだったが、流石に数日も食いつないで底を突いた。
そんな日に限って日雇いの代筆や本の管理の仕事も無いときている。

それで、金欠に喘いでいる所を、彼の通っていた大学の教授、ヘンリー・アーミティッジに呼び止められたわけだ。
彼は壮健な老翁で、九朗も何かと目をかけてもらっている。

が、悪戯が好きなのか、生活以前の生存が危うい九朗に誘惑を投げかけてきた。

何でも、アーカムシティの外、山脈沿いに四時間足らずバスに揺られて至る小さな町の怪事件の調査とのことで。

大十字九朗の表の顔が探偵だとしたら、中に隠しているのは魔術師という奇妙な顔だ。
ただ、魔術師といっても暗い部屋で訳のわからないものを大釜に入れて煮るだとか、杖を持って外套を羽織、箒で空を飛ぶという『それらしい』ものではなく、九朗の才能はその反対にある。
普通魔術師は自らの領域に引きこもって、魔術の習得、研鑽に励むものが殆ど。

ある意味異端といってもいい九朗の存在を、アーミティッジはこれまた良く理解していた。



九朗が行き着いた町の怪事件とは悪魔が人を攫うというもので、既に年頃の若い娘が八人被害にあっていた。
全員処女で、被害にあった娘は皆、翌朝に放心しているところを発見されたという。

事の実は夢魔の起こした悪戯、と言えば聞こえがいいが、人間の精力を奪って力を蓄えていた悪魔の仕業だった。



紆余曲折の果て、町に行き着いた晩にまた帰りのバスに乗ることになってしまった。
アーカムシティに帰り着いたのが昨日午前二時過ぎ。

これで報酬も貰えるというのは美味しい話なのだが、一睡も出来ない堅い椅子のバスには堪えられなかった。

そのせいで昨日は空腹と睡眠不足のダブルパンチでぶっ倒れてしまい、教会のがきんちょ二人から顔にバカだのアホだのかかれ、頭に蛙や蓑虫を乗せられ。
それもいつものことになっていると自覚すると、些か情けないが、そこに行った目的は果たせたので結果オーライ。


「…」


更に、昨日は例によって暴れた破壊ロボを沈めて弾丸を無駄に使ってしまった気がしないでもない。
お陰で残り少なくなっていた弾倉は空っぽ。
ちなみに。この事務所の家賃も滞納中。電気水道ガスは支払った…そのお陰で飯も食えないのだが。

妙な感傷を伴いつつ装填を終えた時に、九朗はなんともいえない顔つきで溜息を吐いた。





充実している。

なんでもない暮らしをする…たったそれだけで、大十字九朗は充実している。
それなのに、胸にぽっかりと穴が開いたような感じは何なのか。
ジグソーパズルのような心に、決定的なピースが抜け落ちしまっている、そんな感じ。
故に、今の大十字九朗は満たされているようで、満たされていない。
彼の心の真ん中の、最も重要な何かが…ない。

寂しさとはまた違うし、虚しさでもない。
確かに自分はそこにある、疑いようも無くそれは真実だ。

しかしそこには、何か、決定的で、致命傷なほど。

何かが足りなかった。












―――――――平穏である。

浮世は平穏そのものである。
人々は往来を謳歌し、鳥は楽しげに空を行き交い、風は賢しげに縦横無尽に駆け巡る。
雑踏と喧騒は毎日絶えることが無く、忙しない毎日も途切れることは無い。
誌面をにぎわせる事件、人の口を媒体に広がる噂。
何のことは無い。平穏である。

それらは皆人が人たる所以であり、人が人である以上必須であるものなのだから。
だからこそ、正常。

―――――――何も変わらない。

日常とは平穏を意味する物ではない。
激動ですら、続けば日常となる。
怠惰に溺れた平穏が日常とは、詰まるところ何も変わらないということだ。
誰もが今日と同じ明日を信じて疑わず、誰もが今日と違う明日に焦がれている。

アーカムシティは今日も平穏。何も変わらない。
されど今日は昨日の複製ではなく、明日は今日の模写でもない。


「っ、止めだ止めだ、こんなネガティブな気分だと脳みそ腐っちまう。…寝よ。」


頭を振って憂鬱を誤魔化す。


丁度良い、体も疲れているし、今日は仕事も無い。
なら、今日ぐらいはゆっくり…


<ぴんぽーん>


眠れなかった。


<ぴんぽーん>


チャイムの音は止まず、一定の空白をあけてまた繰り返す。


「…………」


<ぴんぽーん>


居留守を使ってしまえ、と、九朗の心が囁く。
貧乏生活から一気に脱出できるお金持ちの依頼がきたかもしれない、なんて淡い幻想はとうに捨てた。
どうせまた猫が迷子だ、なんて、小さな女の子がワンコインでやって来たに違いない。
結局猫は女の子の家の床下に迷い込んでしまっているんだ、と空想が拡大していく。


<ぴんぽーん>


「…っ………」


案外食い下がる。
ようやく睡魔が歩み寄ってきてくれたところなのに、ここでお誘いを外すのは拙い。
そしたら日中は眠れず、無駄にすきっ腹を抱えて唸る羽目になるだろう。
さっさと帰れ、帰ってくれと心で願いつつ、寝返りを一つ。二つ。


<ぴんぽーん>


「………ぁあ、五月蝿い!」


正直、頭にきた。
陰鬱な気分なのに、ぴんぽんぴんぽんとさっきから人の気も知らないで鳴らしてくれる。
相手も根気がある。チャイムが鳴る間隔も狭まっていき、鳴らす人間もことを早めたいようだ。
ならば相手になってやるほかは無い、脂ぎった中年が妻の不倫を調べろ等と抜かしたら早々にお取引願ってしまうだろう、拳で。


<ぴんぽーん>


探偵稼業が連日休業になりかけていたせいで抜け落ちてしまっていたが、今日は休業日。
それなら新聞の勧誘か、怪しげな新興宗教か、まさか借金取りということはあるまい、あって欲しくない。


<ぴんぽーん>


「はいはい、今あけますよー」


食器棚を姿見の代わりにして、ソファで乱れた髪を手で梳く。
くしゃくしゃのワイシャツは…アイロンでもない限り取れないような皺が刻まれている。
まるで老翁だ、皺が深いのは年月の証。
なんて馬鹿な感慨を目脂と共に擦り落として、最後にまた所々埃を被った「姿見」をみる。

大丈夫だ。顔は相変わらず冴えないし、スラックスも裏返しにはいていない。
タイは…こればっかりは締めたくはなかったので却下。

寝起きの眼で玄関に近づいてドアノブを捻り、開ける。


「うぃ、どちらさまー…ぇ?」


完璧に着こなしたスーツ。
大きく見開いてしまった眼に先ず入ったのはそれだった。
次に、落ち込んでしまった視線に捉えられたのは足元、良い靴を履いている。
ほこりを被ったマンションなどには到底似つかわしくないような上品な香水の香りをつれて、その人物はいた。


「こちらが、大十字九朗様の事務所ですね?」


深く芯の通った声は、持ち主の性格が良く滲み出ている。
彼は鋭い眼を丸眼鏡で隠し、弦楽器に張られた弦のようにきりりと背筋を伸ばしていた。
一挙一動、立ち方、呼吸にいたる全てにおいて整ったその男には隙と言うものがまるで存在しない。
普段なら畏怖と共に警戒の目すら向けてしまうところだが、その声、顔には見覚えがあった。
毅然と立っていたのは、見間違うはずも無いくらいの執事。

そう、覇道の執事ウィンフィールドだった。

九朗は絶句した。その後コンマの域を出ずに眼を瞬かせる。
一瞬、声をかけようとして憚られた。

彼とは戦友だ。

いや、だった。といったほうが正しい。
今の彼は九朗に面識などあるわけも無く、これが初対面である。
二人の運命が交わったのは今この瞬間。


「大十字様…ですよね?」


怪訝そうな顔をするだけで、背筋の一つも曲げない執事には含みも無い。


「え、いや、そうですけど…えーと、何か?」


「仕事の依頼です」


聞き返した九朗の萎んだ声に、今度は執事の奥からの綺麗な声が重なった。
小奇麗な執事の姿すらこの薄汚れたマンションには似つかわしくないというのに、透き通るソプラノボイスは酷く浮いていた。
流石に執事、口を挟む無粋もせず恭しく一礼して、九朗の眼の前からずれた。
もう疑問に思うまでも無く、視線を下げる。






そこには真紅を纏った姫がいた。






確かな意志を宿す瞳、秀麗な眉。
ふんわりとマシュマロのように柔らかそうな白い頬。揃って端整な鼻と口。
それらが秀逸に収まった輪郭は柔和な曲線を呈していて、絹の質感を湛えた淑やかな黒髪は、涼しげに下に流れていた。
頭二つしたから見上げられる位置にありながらも、どこか気迫で押されてしまいそうな雰囲気。
所為は内に覇者の心を秘めた、挑戦的な目線だろうか。
身に纏うワインレッドのドレスは、コルセットを着けた腰の括れを一層際立たせ、広がったパラソルスカートが眼を引く。
品の良い立ち居振る舞いは育ちのよさを存分にうかがわせ、深窓の令嬢と言うこれまた上品な言葉が九朗の脳裏を掠めた。


「そう、あなたにこそ相応しい仕事です。大十字九朗さん」


「…姫さん…」


物腰は立派に女王様。けれどまだまだ青い。だからお姫様。
そんな調子が懐かしくて、九朗は思わず言葉を零していた。


「…『姫さん』?」


安堵したような、それでいて少し驚いているような顔をした九朗を、彼女、覇道瑠璃は不思議そうな眼で見つめていた。










返事など決まっていたし、何よりそれ以外には考えられなかった。

答はYES。

しかし許諾はしたものの、今回の依頼の特異さに九朗は少なからず引っかかりを覚えていた。
胸の奥に小さな針が刺さって取れなくなっているような、そんな違和感。
これは、やはり毛色が違う。
逆境という炎の中で真剣のように鍛え上げられた本能が、直感が、警鐘を鳴らす。
そして、九朗は警鐘の正体を知っていた。
身の毛のよだつ恐怖と、神経を削る危険、それらを内包する怪異の気配だ。

唯一の情報源であるアーカム・アドヴァタイザーには逐一眼を通していたはずなのに、覇道から依頼された事件はついぞ聞いたことも無い。

曰く、夜道を歩いていた人間が行方不明になり、数日後に衰弱して発見される。

曰く、異形の群れが闇夜を跳梁する。

曰く、自動車や建物が触れれば切れてしまいそうなほど鋭く両断されている。

曰く、限られた区画において、局所的な異常気象が発生する。

どう考えても人の成し得る所業ではない。
ならば、これらは人ならざるものによって起こされた怪異に他ならない。







寒空の下、九朗は偃月をみて眼を険しくした。






『このような事件は、あなたの領分だと思いますが。そうでしょう?』


先ほど、覇道瑠璃が放った言葉が頭に蘇る。


『元ミスカトニック大学隠秘学科主席、大十字九朗――今は、魔導探偵、大十字九朗とでもお呼び致しましょうか?』


結局、あの娘に試されてしまっている。

現状も見透かされているようで、九朗が今のところはアーミティッジの助手ということも知っていた。
助手というのも、とどのつまりはギブアンドテイクにある。
先だっての事件の解決にも一役買っているのは、単に彼の依頼という形式であったからだ。
報酬は様々、金銭の時もあれば物品もある。
無論、仕事も様々で、多種多様なコネクションから仕事を回してもらえることもある。
オートマチックやリボルバーの弾丸の特殊な火薬でさえ、あの老爺に手配してもらっているのだ。
だが、付き合いに気を置いているわけでもなく、憎めど憎めないようなあの爺の性格の根幹は解っている。

けれど何と言っても、先日の事件をたった数時間で解決した時に、彼の鼻を明かせたのは痛快だった。

何せ着いた晩に銃弾一発で終いである。
化け物退治よりバスの方が過酷だったとは何たる皮肉。


そして魔導探偵、それが九朗のもう一つの顔。

現代社会において解明されない怪異に立ち向かい、ことごとくそれを解決するもの。
科学では説明できない不可思議な魔術を用い、時にはそれをもって害を成す怪異を打ち倒す。
もっとも、魔術は邪道、外道の集まりといっても過言ではない。
故に、九朗の役目は大半後者に限られてくる。

本職のエクソシストがただの水と軽印刷の聖書を使うまでに退廃した今日、強大な魔術をもって堕ちた魔術を裁すのは最早鉄則。
ならばこそ、こういった日の当たらない者たちの力は必要になってくる。

アーカム・アドヴァタイザーには決して掲載されない真実が此処にある。

ランバーストリート55番地の一家惨殺は他殺ではなく、魔導生物キメラの仕業であり。
ロウアー・イーストサイド、セントラルビル38階のみの停電は、夜に棲まうものたちヴァンパイアが抵抗した証であり。
シアノーゲンストリートのオフィスビルは強盗に襲われたのではなく、下賎の民ゴブリンの暴走であり。
ミスカトニック大学屋上の損壊については言うまでも無く、落雷などではない。

真理を引き攣れ、ともに歩む。魔導探偵とはそんなものだ。









地面が煤に塗れていく。
メインストリートの華やかさとは違い、二つほど小さい路地を潜ればそこはもう世界が違う。
閑散とした住宅街。ここには人の姿さえ見受けられることが出来ない。
あり大抵にいえば、スラムだ。
おのぼりさんが迂闊に入れば命の危険すら伴う、そんな場所。男なら身包みはがされ、女なら辱めを受ける。
というのに、今はもう人の姿など見受けられない。閑寂が支配する通り。
不気味なほど静まり返ったこの世界に、九朗は身震いした。

寝静まっているわけでもない。かといって誰も居ないわけでもない。
この街は怯えているのだ。得体の知れない『何か』に。

その『何か』を探るため、九朗が行動を始めたのは夜だった。

昼は世界を光が支配するように、夜は世界を闇が支配する。黄昏は誰そ彼、明け方は彼そ誰。
夜は、魔の出でる時間である。
人は人、魔は魔、お互いにルールがあるように、昼は人が、夜は魔が世界を跳梁する。
このルールを犯したとき、どちらかは厳正に犠牲を払う。
人間が魔を見つけたときに祓うように、逆も然り。
事件の原因が魔術にかかわると睨んだ以上、態々わざわざ昼間に駆け回る必要もない。
ブラックロッジという組織が消えた今、危険分子たり得る存在は眼に見えるものでもなくなった。
それでも怪異が収まらないのは、それを起こすものがいるという事実を如実に突きつけてくる。

魔術というのは人の道を外れた外法だが、神秘をも兼ねるため、隠匿すべき物でもある。
事件を起こすという、いわば失態を晒すのは魔術師としては三流未満。
本当の魔術師は人の目には映らない、だから一般人は魔術など知らず、一生を終える。






考え事をしていたせいか、注意散漫になっていたらしい。
思わず警戒心を忘れ、人の気配すらない区画に足を踏み入れてしまっていた。
同時に、頭の警鐘が泣き叫ぶ。

体が動かなかった。

いや、凍ってしまったか、あるいは全く言うことを聞かないというわけではない。
まるで、何かに縛られているといった具合だ。

何たる迂闊。

鼻を鳴らすと、蕩けそうなほどの濃さ。そう、魔力の臭いだ。
鼓動を荒げる心臓を無理やり落ち着かせて眼球を左右上下に走らせど、そこには何も無い。
それでも、九朗の感覚は危険を察知していた。


「こいつは…!」


普通とは一線を博す世界に対し、どんよりと重い脳は冷えたソーダ水でも入れたかのように一瞬でクリアになる。
外界のあらゆる側面を視るため、今の自分の内面に眼を向ける。視覚に及ばぬ微小な何かを見るために、視覚情報の認識レベルを再構成してじぶんのスイッチをきりかえて己の伝達経路チャンネルを繋いだ。
眼の奥に鈍い痛みが走るが、そんなことは気にしていられない。
三度目の瞬きの後、九朗は「た」。

薄汚れた廃墟にかかる、毒々しい蜘蛛の巣。

暗闇に一際映える、白い魔力の糸。
見覚えの在る魔力に警鐘が耳を劈き、鼓動が早まる。


「蜘蛛の巣…まさか!」


甘い臭い、脳髄が蕩けそうになる甘美な毒の香り。
もはや鼻をヒクつかせなくても、その気配はいやがうえにも感じ取れた。

これは、死の匂いだ。

第六感が危険を頭に叫ぶが、そんなことはもう当の昔にわかっている。
問題なのは、この既視感。

この、濃密な気配。
蜘蛛の巣。
そして、この臭い。

半ば反射で見上げた暗闇の空に、それはいた。

蟲惑的で、淫靡な、邪悪。

女の形をしたそれは、みれば間違いなく男の劣情を誘うだろうが、九朗にはその逆だった。
蜘蛛の格好で四肢を糸に這わせ、妖艶な仕草でそれは微笑む。
艶かしい動きは男を誘っているかのようで、思わず肉付きの良い臀部に目が行ってしまう。
はちきれんばかりの胸をゆっくりと揺らし、それは着実に迫ってくる。


「なんでおまえが!?」


美女は殆ど裸に近い。
けれども、九朗の背筋は氷で撫でられたように鳥肌が立っていた。
容姿に似合わぬ兇悪な爪に起因するのか、それとも、本能がそれの内に潜む危険を覚えているのか。

舌なめずりをする、女。
その眼は捕食者のそれだ。身動きの取れない被食者を弄んだ挙句喰らおうとする、肉食獣のそれだ。
すとん、と軽い音を立ててアパートメントの三階の高さからそれは、九朗の眼前で着地。
人間では到底表せない愉悦を眼に浮かべるそれに、神経が怯えそうになるのを九朗自身が抑えた。


「アトラック=ナチャ!?」


変容は一瞬。
女の皮を着ていたそれは見る見るうちに皮を脱ぎ捨てて、本来あるべき姿に変わった。
アトラック=ナチャ、それが女に化けていた化け物の名、だった。
蜘蛛の姿に似たおぞましい多脚、人の名残を残すのは胴体の形と甲殻に覆われた胸の形くらいか。

顔には数対の眼が禍々しい光を放ち、腕は鋭利な凶器と化した。


Shaaaaaaaaaaaaaaa!!


物の怪が吼え、コンクリートにはそれの足が突き刺さりひびが走った。
粘液の滴る顎は大きく開かれ、触れるだけで呪いを受けかねない瘴気を撒き散らしている。
それはもう人型とは呼べず、一介の化け物になった。
凶悪を形にしたような輪郭は、見るものの心を竦ませようとするだろう。
その恐怖は動けぬ九朗を喰らうため、凶器を振り上げて襲い掛かった。

常人には眼にも止まらぬ速度。
常人では、先に心が折れる。




「くっ、嘗めるなぁ!」


―――轟!!


世界の裏をかき世界を出し抜く術、それが魔の術。
蜘蛛の巣という魔力で編まれた糸の抜け道を、九朗はぶち抜いた。
術式は瞬きする間もなく疾り、蜘蛛の巣を燃やして瓦解させていく。

解呪ディスペルだ。

今まで紡がれていた魔力による糸は、そのほころびを九朗の魔力によって暴かれ、完全に燃え尽きた。


「!?」


アトラック=ナチャが狼狽する。
無理も無い。今までの奴とは違う。黙って喰らわれるだけの奴らとは明らかに違うのだ。
しかし、気づいた時には既に遅かった。
九朗はオートマチックを手の中に滑らせ、ろくな照準もせずに弾丸を放った。

これだけの巨体が至近にある、ならば、照準など構えるだけで結構!


Gyaaaaaaaaaaaa!!


化け物の胸に風穴が開いた、風穴が燃える。血が焦げる。炎は全身に回る。
人の手に持てる銃器の破壊力とは思えぬほど、右手に握られた銃の攻撃力は常軌を逸していた。
断末魔は、火薬の軌跡の連鎖爆発によって遮られ尻すぼみになっていく。
壮絶な場景を眼の前に、九朗は不敵に笑った。


「魔術が使えないと思ったら、大間違いだぜ?」


懐から取り出す魔導書、ネクロノミコン新釈。
未練がましいかもしれないが、やはり下手に強力な魔導書をもつより、若くて従順なものの方が都合がいい。
それでも、魔導書といえば魔導書である。
あの小生意気な少女の面影など無いというのに、やはり九朗にはこれが合う。
アーミティッジに無理を承知で頼み込み、教本としてありがたくいただいたものだが、実際それに嘘は無い。
復学までの期間は、抜け落ちた知識を参考書で補うつもりだ。


「だけど…やっぱり、こいつら」


吹き飛ばされ、無様に転がっていたアトラック=ナチャが砕けた。
ぼうぼうと燃え盛っていた異形は形を失っていき、灰ではなく、紙切れになって散り行く。

―――デジャヴだ。

前にも味わった感触が、段々と首を擡げてくる。

―――アトラック=ナチャ。

自身もその力を振るったことが在る。

―――紙切れ、魔導書のページ。

胸のうちに渦巻いていた疑念が色を濃くしていく。
最早疑念は懸念になり、様々な憶測を九朗の頭に走らせていた。


―――!」


魔導書のページに手を伸ばそうとして、その手は黒い銃を握る。

感覚任せの、デタラメな銃撃。
その一発は今まさに九朗の頭をかち割ろうとしていた漆黒の爪の持ち主を貫いた。

飛びのいた地面には深々と爪が刺さり、その漆黒、悪魔は絶命していた。


夜のナイト ゴーント!?」


地面に逢着した靴が砂埃を巻き上げる。一泊遅れて耳に届く、断末魔の叫び。
穿たれた地面をそのままに、夜のナイト ゴーントはアトラック=ナチャの如く砕けた。
破片は、やはり紙切れ。
暗い路地に落ちることなく、それらは宙を踊っている。
不意に、それらが一つになると、魔導書のページは天を目掛けて空を上り、中空で方向転換。


「待て! …?」


重力を無視したその動きに、既に頭のスイッチは切り替わっている。
冷静な眼で追いかけた白い竜巻のような紙切れは、明らかに九朗を誘っていた。
飛び去っていく方向に首を振ると、直感に近い確信が九朗の本能をなで上げた。

アーカムシティでも有数の高さ、暗さをもって聳え立つ巨塔。

その威容が、何時にも増して暗く、曇って見えた。






予感は的中した。






此処までくると、懸念は殆ど確信に近づきつつあった。
十字路から首を奪おうと爪を振り上げた、大凡子どもには見せられない邪悪な顔をしたウサギ。
生理的に嫌悪したい、慇懃無礼な老紳士。
どれも狂暴に、九朗の命を絶とうと襲い掛かる。

ニトクリスの鏡。

風を切って物体を切り裂く刀、丁度中腰を狙ってきたところを下に滑り込んで避ける。
髪の毛が数本舞った。だがそれに構っている暇など微塵も無い。
折り返してきたその刀は弧を描き、今度は首を狙いに定めたらしい。

バルザイの偃月刀。

風を撒き散らす音に、チェシャ猫を蹴り飛ばした勢いを使って反転。  
空中で照準、先ずはバルザイの偃月刀。
首をはねるはずだった勢いは余って、体勢を変えた九朗に剣の腹を晒していた。

オートマチックの銃火マズルフラッシュ
遅れて咆哮。
反動リコイルで体が倒れる瞬間、開いた左手で地面を蹴ってリボルバーを掴んだ。
相手に当てるイメージではなく、相手に当たるイメージは出来上がっている。

残念ながら両手が使えればもっと早く銃を撃てただろう。

無意識のハンマーコックが五度。
それでも十分な早撃ちファストドロウだった。

猟犬の軌跡を描いた弾丸は、どれも致命傷に至らせる。

結局、鏡が割れる音と、刀が砕け散る音は同時だった。
破片は、やはり魔導書のページとなって空に駆け上がった。

もう、懸念は確信に変わった。
偶然でこういうことになるのなら、神様は大分茶目っ気たっぷりなのだろう。

地面を転がり、立ち上がる。

その足は、ミスカトニック大学、時計塔正門へ向かっていた。






駆ける足が速まる。

心臓の鼓動を誤魔化すように、早く、速く、走る、奔る。
魔の気配、危険な気配が強くなっていく。
それにともなって、真実へ、確信へ近づいている気がしてならない。
さっきから走ってばかりだと言うのに、上がる息も何処か楽しげだ。
その実、心は微かな焦燥を感じ始めてはいる。

ふと、駆けていた足が止まった。

カツン、と、靴音が夜空に響き、エコーが段々と薄くなる。
冷たいくらいに頬を掠めていた向かい風も同じくして止まり、少し荒くなった息が静寂の中で唯一つ煩わしい。
眼を奪われたのは、二つの人影。
暗闇に浮かぶようにして朦朧としていた輪郭も、近づくたびにはっきりとしていく。
圧倒的な存在感。
人ならず、怪物が人の形になっているというだけで、この気迫。

左に佇むは、燃え盛る炎を思い起こさせる美女。
口元に引かれた青いルージュは褐色の肌に良く映えて、情熱的な瞳には思わず眼を奪われる。

右に佇むは、凍て付く氷を思い起こさせる美女。
口元に引かれた赤いルージュは純白の肌に良く映えて、冷々とした瞳には思わず吸い込まれてしまいそう。


「よう、久しぶり」


片手を上げて、十年来の友人に話しかける気軽さで言った。
途端、二人の美女は優艶に微笑み、腰を落とす。

裏腹である。彼女達…その人影は女の姿を呈しているものの、その細い体から発せられる存在感は身を竦ませようとする。
妖しげな笑みを浮かべつつも、彼女達はその威力を振るおうとする。

風が啼いた。

眼にも止まらぬ速度で駆け出し、九朗を目指す赤い美女クトゥグア/RP>と、青い美女イタクァ/RP>
小麦色の肌を隠していた着衣の代わりに、自身に炎を纏わせて駆ける赤い美女の名は、クトゥグア。
不気味なくらい白い肌の上に凍える空気を纏わせ、砕けた衣服を散らして駆ける青い美女の名は、イタクァ。
対照的な二人の貌(かお)のように、二人の力もまた対極。
灰も残らぬ灼熱と、生命の息吹すら閉じ込める絶対零度。
魔力の流動は文字通り桁が違う。人間という枠組みを遥かに超越したその強大さは怖気さえ誘う。

象の行進に逆らう蟻の様に、間違いなく、死ぬ。

そんな状況でも、九朗は恐怖しなかった。
野暮ったい溜息を吐いて、眼の前で人のなり/RP>を脱いだクトゥグアとイタクァを睨む。


強制契約アクセス/RP>!」


空気を振るわせたのは、雄雄しく猛々しい契約の言霊。


「大十字九朗の名を、汝らの魂に刻み込むべし!我は汝らの主なり!我は汝らの王なり!我が許に来たれ!我に跪き接吻し、我が威力に宿れ!」


炎を纏った四つの足を持つ獣と、空気を凍らせる白い竜。
それらは双方、人間より高い位置にいる存在である。
だというのに、契約の言霊を受け取った二匹はまるで吸い込まれるように、光となって二丁の拳銃に宿った。

黒い光を湛え、強暴な灼熱をその身に躍らせるオートマチック、クトゥグア。
鮮烈な銀を湛え、冷酷な輝きを欲しい侭にするリボルバー、イタクァ。
二つを携えた両手に、小さな痛みが刺す。


「…ふぅ」


大仰な溜息を吐いて、周りを見渡した。

障害となる敵の姿は無く、ただただ無音。
静寂が闇夜に落ち、暗闇に染められたキャンパスは不気味なほど静まり返っていた。
同時に、九朗は漸く口の端っこに表情を浮かべる。
九朗を此処まで導きたがっていた何者かの意志はここにある。またしても第六感が告げていた。

アトラック=ナチャ。
ニトクリスの鏡。
バルザイの偃月刀。
クトゥグア、イタクァ。

瑠璃の依頼を受けた時に感じた引っ掛かりが、漸くほぐれてきた。
既視感を感じるのも無理の無い話だ。
何せ、これはデモンベインに乗っていた頃の再演リピート/RP>なのだから。
かき集めた一つ一つのピースが、徐々に答えを導き出そうとしている。

デモンベインを起動させるための魔導書を探せ、と依頼されたわけでもない。
だが、期待しなかったわけでもない。
その期待の延長が、徐々に現実になろうとしている。

空を見上げた。

そこには、月夜を直線で切り取る時計塔が、物々しい気色を漂わせて在るだけ。










―――作為的過ぎる。

先ほどから、どうも調子が出ないのは、掌で踊らされている気がするからなのだろうか。
秘匿され、厳重に扱われているはずの図書館のドアノブを捻った時、九朗は眉を顰めた。

普通、この図書館は一般人が立ち入ることが出来ないような仕組みになっている。
それゆえ、ここに入るには「秘密図書館閲覧」ができる位階まで上げなければならないというのに。
何故そこまでしなければならないのか、それにも理由がある。

魔導書とは知識の泉であり、魔術師の力を最大限に利用するためのもの。
されど、年月が古い魔導書はただの本ではなくなる。
その本は意志を持ち、より高位になればなるほど強力になるが、純粋な道具/RP>としての魔導書とは異なっていく。
人格をもった道具がどれだけ厄介であるか、それは想像に難くない。
加えて、魔導とは外道の集まりでもある。
人の価値が極端に低くなる外道の法において、魔導書が意志を持つこと、それすなわち人に仇なすものの誕生である。
一概にそうだとは言えないかもしれない、けども、図書館に入ったときの威圧感はそういわざるを得なくさせた。
邪悪な気配。幾年月を重ねた邪法の意志は、酷く歪んでいる。

ここは精神力が無ければならない。

心構えが無いものが足を踏み入れれば、たちまち魔導書の餌食である。
九朗にとって、ここは輪廻に巻き込まれる以前の始まりの場所。




漂う妖気に当てられたのか、眼で取り入れる映像に記憶が重なる。
真っ暗だった記憶が、おぼろげながらも解き放たれようとしている。
浮かれ、有頂天になっていた、初めての魔導書閲覧の記憶。
恐怖につづられた暗い記憶。

『まだ、早い』

あの時も、今も、この場所には何らかわりが無い。あるとしたら、大十字九朗が少し変わっただけだ。
鈍痛、頭を襲う。

―――何を視た、何に怯えた、何を識った、何を恐れた。

カチリ、と一つ記憶の糸がつながる。
それを申し合わせたかのように、足も一歩前に出る。
その瞬間、眼の前が彎曲するほどの魔力の流れを感じた。
不思議と恐れは無く、ただ、周りの魔導書たちが放つ妖気は、自らの手を引いているように感じた。
甘い匂い、濃密な魔力の気配。
気圧されることも無く、自らの足で、しっかりと地面を踏みしめて、進む。

―――何が視える、何を怯える、何を識る、何を恐れる。

ギチリ、と脳に入った鍵が回される。
朝靄のようにかかった、記憶の霧が、少しずつ、緩慢な様子で晴れていく。
頭の中は氷のように冷たく、体は火の様に熱く。
不可思議な高揚感。足が少し速まった。

『まだ、出会うには早い』

追い立てられ、時に導かれるようにして、九朗は此処に来た。
まるで、怪異たちが手招きしているような。

図書館の奥に進む。しっかりとした足取りで、進む。

唐突に、風が吹いた。
それに運ばれるようにして、舞い、踊る魔導書のページ。妖気の嵐がその場を包み込み、荒れ狂った。
気にも留めてやらない。ずんずんと足を進めていく。足を進めるごとに記憶の霧が晴れていく。
足を進めるごとに、真実、答えに近づいている。

『時が来れば、我らは必ず巡り逢う』

ガキリ、と、頭に撃鉄が落ちた。

無限の輪舞曲ロンド/RP>のなかで、神様の悪戯とはなんと皮肉かと罵ったことが在る。
時には、罵倒し、唾さえ吐いたことも在る。
けれど、今だけはそんな気分とは全く逆の気分だった。

何と言う、運命。

神様のいたずらにしては、度が過ぎる。
…やっぱり唾を吐きたくなった。

剣指を作って五芒の印を切る。
書き連ねた魔法陣から光が溢れ、紙切れの群の真ん中を貫いた。

爆発。

紙切れが舞う。散り行く花弁のように儚げに舞う。
だから、だろうか。切なくて物悲しい色を漂わせた魔導書のページが舞い落ちる。

―――時が来れば、必ず。

そんな、綺麗な情景のなか、揺れ落ちていく断片フラグメント/RP>の向こうに怪異そいつ/RP>は居た。
過去と同じく、だが、確かに違う。
幻想的な光景の中で、九朗は確かに邂逅した。
だから、これは二度目の邂逅。

何と言う、運命。

しかし、このときばかりは眼に見えない神様とやらに感謝した。
大きな溜息を、一つ、二つ。
それから、大きく息を吸って、吐く。

いつもどおり、冴えない顔で、裏返ってないスラックスで、しどけないタイのままで。


「ラテン語版が大学に保管されているのは知っていたけどさ」


そう、言ってやった。
驚いた顔で振り返る怪異。
白磁のように白い肌。少し赤みの挿した頬。見開かれている翡翠の瞳。美しい銀の糸。


本物オリジナル/RP>が保管されてるとは流石に聞いてなかったぞ」


―――ああ、これは夢じゃない。
九朗は芝居がかった素振りで溜息を吐く。
じわり、と眼の前の少女の目に涙が浮かぶのをみて、やっと、呆れたように笑えた。
こういうとき、男は泣いてはいけないのだ、と最後の意地が無意味な抵抗を繰り返す。
それに、別れの時に十分泣いた。
なら、今は笑ってやるしかないのに、なんで声は湿っぽいのだろうか。

少女が、唇を噛んだのが、見えた。


「九朗…九朗…九朗―――――ッ!」


心地よい響きだ。鈴のような声が奏でる自身の名はとても自分の名とは思えないくらい良い響きだ。
持ち上がってしまう頬に、暖かい何かが流れた。

白紙に戻った世界。
空っぽになった世界。

その先にあるはずだった未来を生きた九朗たちは、惜別の果てに、今此処に邂逅した。
幾多の苦渋の果て、運命に流され抗った二人は、運命の悪戯によって再び巡りあった。
駆け寄る少女の小柄な体躯を、九朗は膝をついて抱き竦める。
二人の腕の中には、愛しい人、その嘘ではない温かさがある。


「馬鹿野郎…勝手な真似ばかりしやがって」


声音が震える。それを誤魔化すように、九朗は腕に力を込めた。


「い、痛いぞ…九朗」


「五月蝿い」


胸の中で泣きじゃくっていた少女が抗議を上げても、止めてなんかやらない。
もっと、力をいれてやると、彼女も観念したのか何も言わなかった。

嬉しさ半分、憎たらしさ半分といったところか。
そも、自分が、今ではもう誰も知らない世界を救ったヒーローになってしまったのはこいつのせいだ。
門の向こう側に行こうとした時だってそうだった。
人を勝手に巻き込んでおきながら、今更というときに変な気を使ってしまう。
だから、九朗は許せなかった。
乗りかかった船と、やっと足が半分ついたところで船着場に押し戻されたようだ。


「二度と、逃がしたりするもんか」


迷惑をかけて少しも悪びれた風にしない傲岸不遜のくせに、最後の最後で裏切った。
愛している、これだけは未来永劫絶対に変わらない。
それなのに、一緒に生きたかったのに、彼女は一つ大きな誤解をしでかした。
九朗にはこの少女が居ればいい。たったそれだけで満ち足りる。
そんなことも解らない、この大ばか者に九朗は大層憤慨していた。

細い体は、九朗の腕に抱かれて涙を布地に含ませていた。
九朗は、その折れそうな体が一体どれほどの辛さや寂しさ、苦しさを背負ってきたのか、想像も出来ない。
それでも、自分たちは確かにここにいる。神すら消せない絆を持ったまま。
ならば、自分が生きている間、否、死んでもなお彼女の支えであり続けよう。
二度と涙など見せぬよう、いつまでも。

一緒に生きて、苦労して、楽しんで、悲しんで、笑いあって、泣きあって肩を並べて歩いて。
魔導書だからなんて関係ない、全部ひっくるめて彼女を好きになってしまったのだから。

久しく忘れていた桜色の唇の感触に、九朗はやっと腕を緩めた。























あとがき

デモンベインSS、微妙な滑り出し。
基本的にアル好き。
あとウィンフィールド。
それとウェストとエルザ。

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